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甘樫丘の穀物倉庫?

2017年1月 

 私たちが普段遺跡を発掘していると、土器や瓦、石器、金属器、あるいは木器などの遺物が見つかることは、皆さんご承知の通りです。これらの遺物は肉眼でも目に付きやすいので、現場において出土位置や層位を記録して回収します。ところが、こうした遺物以外にも、目につきにくい微細な遺物から、遺跡やそこで繰り広げられた人間活動を理解する上で豊かな情報を得られることがあります。例えば、数ミリの大きさしかない植物の種実、さらには顕微鏡を使わないと見えないほど小さな花粉などが、遺跡について雄弁に物語ることがあります。こうした微細遺物を回収するために、現場では必要に応じて土壌サンプルを採取し、室内でさらに細かく調べる場合があります。

 2011年9月から翌年4月に当研究所がおこなった甘樫丘東麓遺跡の発掘調査(飛鳥藤原第171次調査)では、谷の内部から焼けた土塊や炭化した木材が出土しました。特に調査区の西南隅では、炭溜りSU250と命名された、炭化物の集中箇所が検出されました。現場でこの遺構の土を観察しますと、なにやら穀物の粒のようなものが見られましたので、この遺構の土を研究所に持ち帰り、小さく脆い遺物を浮力を利用して壊さずに回収する方法である、「浮遊選別法」を行って植物遺体の回収を試みました。

 選別の結果、コムギ・イネ・ドングリ・モモなど数百点の種実が回収されたましたが、この中で圧倒的多数を占めるのは、コムギだということが分かりました。この調査では壁土の破片と思われる土塊や屋根材に使われた可能性のある炭化した単子葉植物も多量に見つかっているため、周囲に倉庫のようなものがあってもおかしくありません。イネ、アワ、キビ、ヒエなど秋に収穫される穀物とは異なり、コムギは二年生作物で秋に播種、春に出穂・開花、初夏に収穫します。もしこのコムギが倉庫に蓄えられていたものならば、収穫直後で麦類の貯蔵量が多い夏頃の様子を表しているのかもしれません。

 『日本書紀』には、皇極天皇4年(645)に「蘇我蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍寶を焼く。」とされています。蘇我入鹿が暗殺された「乙巳の変」は旧暦6月12日、そしてその翌13日に何かが焼かれています。旧暦を太陽暦に直しますと7月10日と11日で、小麦の収穫時期が5~8月頃であることと矛盾しません。

 甘樫丘東麓遺跡が蘇我氏の邸宅跡であったのかどうかは、結論が出ていません。よって、この調査で考えられた季節性と乙巳の変が7月に起きたという歴史的事実は、単なる偶然の一致かもしれません。発掘調査成果から個人までを特定するのは大変に難しいことですので、そう簡単に結論は出ないでしょう。けれども、細かな証拠を丹念に調べていくことで、遺跡をとりまく状況をより豊かに復元することが可能になり、それがこの地域の時代史をより明らかにしていくことは、間違いありません。

 

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 炭溜りSU250(南から)

 

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炭化コムギ果実(長さ4.3mm)

(都城発掘調査部研究員 庄田慎矢)

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