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木簡の再利用ここにきわまれり

2016年10月 

 木簡にはさまざまな形のものがあります。中でも、え!、これも木簡?、と思わせる代表格は、軸の木簡(写真1左)でしょう。どこに文字があるか、おわかりでしょうか?

 円柱状に加工された白木の軸で、文字は両端の直径20㎜足らず(この木簡はまだ太い方)の木口(こぐち)に書かれているのです。これは地方から中央に報告する公文書の巻物の芯にするための軸で、元々はまわりに紙の文書が巻かれていました。古代の紙は縦30㎝程度、横50㎝程度で、これを数㎜の微細な糊代でもって貼り継いで使います。総延長が10mに及ぶようなものも珍しくなかったはずです。軸の長さはこの紙の高さに見合うように作られているわけです。

 この木簡の木口に書かれているのは「肥後国第三益城軍団養老七年兵士歴名帳」の18文字。肥後国(ひごのくに)に置かれた軍団に所属する兵士の養老7年(723)の名簿を巻いた軸であることがわかります。巻物を開かなくても中味がわかる工夫です。この木簡の場合は両木口同文ですが、両木口で完結するように書く場合もありました。ちなみにこの木簡では、極度の緊張のせいでしょうか、片方は「養」を書き落としてしまっています。

 中央に届けられたこうした文書・帳簿類が、一定の保管期間を過ぎて不要になると、サラの状態で残っている裏面が再利用されます。こうした巻物から必要な分だけ紙を切り取って裏面を使うわけです。現在正倉院に残っている8世紀の戸籍や計帳、正税(しょうぜい)帳などは、東大寺を作る役所の管轄下にあった写経所で二次利用された産物で、中には元々の文書の書かれた面の余白まで使っている場合さえあります。

 巻物1本分の紙が再利用され尽くされて初めて、軸は役割を負えることになります。そのためこのような軸は、書かれた年代と捨てられる年代に開きがあるのが普通です。このことは正倉院に残る8世紀初頭の大宝年間の戸籍が、740年代後半に写経所で再利用されていることからもよくわかるでしょう。戸籍の場合は30年保管が原則だったので、二次利用までに40年以上もの開きが生じたのです。

 軸としての役割を終えた材は、あとは捨てられるだけ、かと思いきや、どうもそうでもなかったようです。写真1右のような軸の円弧部分を残した縦割きの断片が見つかっているのは既にわかっていて、かねがねなぜこんなものが生じるのだろうと思っていたのですが、最近この疑問が氷解しました。報告書の写真を見ていただけではわからないことで、これは私たちにも責任があるのですが、まずは写真2左をご覧ください。

 これは遠江国(とおとうみのくに)荒玉郡(あらたまぐん)に本籍をもつ下級役人の勤務評価の木簡で、この種の木簡は側面に孔をもつタイプであるのが普通です。ところがこの木簡は極めて薄くそのような形跡がありません。しかし、木簡の裏面を見ると、ゆるやかに湾曲しているのがわかるのです(写真2右。一緒に写っているのは兵士歴名帳の軸です)。普通の木簡を作るのにわざわざこんな加工を施すとは考えにくく、これは軸の木簡を縦割きにしたものに違いありません。

 残念ながら、確実に軸を再利用した事例はこれとあともう1例しか見つかっていませんし、最初にご紹介した兵士歴名帳のように、完形のまま思い切りよく捨てている事例もあります。しかし、縦に割いた破片の存在は、軸の再利用がけっして稀ではなかったことを物語っているといえるでしょう。使えるものはとことん使い尽くす、まさに木簡の再利用もここにきわまれり、の感があります。古代の人々のものへのこだわりを思い知った次第です。(今年2016年の「地下の正倉院展」では、軸木簡とその転用木簡を展示いたしますので、是非ゆっくりご覧ください。)

 

写真1 軸木簡の完形品(左)とその断片(右).jpg

写真1 軸木簡の完形品(左)とその断片(右)

 

写真2 軸を転用した木簡(左)とその姿(右).jpg

写真2 軸を転用した木簡(左)とその姿(右)

(都城発掘調査部副部長 渡辺 晃宏)

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