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四分遺跡と石庖丁

2016年9月 

 藤原宮跡には長閑な田園風景が広がり、私も通勤の傍ら、四季折々の姿を目にしています。代掻きや田植えといった作業風景、秋には黄金色に染まる稲の生長が四季を感じさせてくれます。使う道具こそ異なるものの、こうした情景は2000年以上昔の弥生時代と同じだったのでしょう。興味深いことに、この水田の直下には、弥生時代の水田跡が眠っていたのです。

 藤原宮跡西南部に位置する弥生時代の四分遺跡では、集落を囲む環濠とともに水田跡が発見され、収穫具である石庖丁も多数出土しました。石庖丁は半月形で、円弧状の背側に紐孔を2つ開け、直線の部分に刃を研ぎ出します。2つの紐孔に紐を通して片手で挟むように持ち、稲の穂首を摘み取るのです。

 なかには、直線的であった刃部が内湾している例や、通常2つの紐孔が3つも開いている例がみられます。これは繰り返し使用した結果を示す痕跡です。使い続けていると、刃は形が変わるほどに擦り減ってしまうようです。それでも、刃を研ぎ直し、紐孔を開け直してまで、長く大切に使用していたのです。

 また、石材の色合いや質感に違いが見て取れます。何種類かの石材が使われていたのです。緑色の緑色片岩、白色をした流紋岩(左列中央の2点)、黒色の粘板岩(右列手間から4つめの1点)。流紋岩は四分遺跡の北1.5kmにある耳成山の周辺で採集されるので、地元の石材といえます。地元の石材なのに出土数が少ないのは意外な気がしますが、この石材は弥生時代でも古い前期によく使われていたようです。

 いっぽう、もっとも多い緑色片岩は遺跡の周辺では採集できない石材です。奈良県南部から和歌山県北部を流れる吉野川流域(紀ノ川流域)で採取されます。弥生時代中期になると、この緑色片岩が10km以上も離れた場所から運ばれていたのです。四分遺跡では製作途中の未成品も出土しているので、成品の形ではなく、加工前の素材の状態で流通していたと考えられます。道具をつくる素材選びにも、こだわりが感じられます。

 米作りの歴史と大切さ、そして道具を大事にする心、物言わぬ小さな石庖丁が私たちに教えてくれているようです。

 

【キャプション】四分遺跡から出土した石庖丁.jpg

四分遺跡から出土した石庖丁

(都城発掘調査部研究員 和田 一之輔)

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