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最古級都市のモデル

2016年8月 

 日本で最古級の都市(都城)といえば、藤原京のことですが、今日はユーラシア大陸のずっと西、私が長らく研究してきた西アジアのお話です。

 西アジアというと、乾ききった沙漠とティグリス・ユーフラテス両大河のイメージでしょうか?しかし、森林が比較的卓越した肥沃な土地もまた、東地中海岸や北方・東方に広がっています。今日は、そんな肥沃な地帯である東地中海南岸、今日のイスラエルとヨルダン(=南レヴァント)の最古の都市について紹介します。メソポタミアとエジプトという文明の先進地に挟まれた周縁地域の1つ、南レヴァントは、最古の都市・国家が両地域で出現してからあまり時間を置かずに、都市とみなすことのできる大型居住地が出現した稀有な地域です。

 同地域では、西アジアのその他の周縁地域に先んじて、前3100年頃に最初の都市が出現しました。北部のベト・イェラハ(Beth Yarah)や南部のテル・アラド(Tel Arad)のように、これらは20~30ヘクタールほどの規模を有し、その外周には石灰岩と泥レンガで造った厚さ2~7mの堅固な城壁を巡らしていました。城壁内には初期には小規模な神殿が、より後の時期にはやや規模の大きい神殿や、ところによっては宮殿跡が検出されています。いずれも基礎部分は石積みで造られていました。また、一部の遺跡では整備された街区も検出されています。

 それでは、南レヴァントの都市の原型はメソポタミアとエジプトに見出せるのでしょうか?メソポタミアでは、前4千年紀中頃に日干レンガ製の城壁で囲まれた不整形の都市が形成されました。代表的なものはウルク(Uruk/Warka)で、その規模は200ヘクタールを超えていました。中心部には都市神を祀る石灰岩と日干・焼成レンガで造られた大規模な神殿群が建っており、その壁面は控え壁やコーン・モザイクで装飾されていました。また、出土した各種の精巧な工芸品は、その製作が専業集団に委ねられていたことを物語っています。街区については、同時期のウルクの植民都市だったとされるシリアのハブーバ・カビーラ南(Habuba Kabira South)で検出されています。街路が東西・南北に真っ直ぐ貫いており、住居に企画性が認められるので、一定の都市計画の下に造営されたことがわかります。一方、ほぼ同時期のエジプトでは、ナイル河沿いの低湿地帯にいくつかの拠点集落が営まれていたことがわかっています。中部のヒエラコンポリス(Hierakonpolis)はその中でも最大級であり、城壁と街区は発見されていませんが、中心には大きな4本の柱を1列に並べたファサードの痕跡と前庭から成る神殿域と考えられる大規模遺構が確認されました。

 このように、規模は小さいものの、城壁、神殿、石灰岩と日干レンガを用いる建築方法、また、街区の計画性などと併せて、最古の都市化からの時間差を鑑みれば、南レヴァントの都市はメソポタミアに起源を持つと考えるのが自然です。ところが、同時期のメソポタミア系遺物はほぼ皆無なのに対して、前3100年より少し前のエジプト系遺物は南レヴァントから数多く発見されています。当時のエジプト人たちが同地に進出していたことを示していますが、そうした痕跡も前3000年までにはほとんど見られなくなります。文字資料が欠如しているため、南レヴァントの都市がどのように出現・発展したのか、今のところその答えは出ていません。実はこの状況、唐長安城と平城京の関係性と少し似ています。文献資料に直接的証拠は見当たらないようですが、遣唐使の派遣時期や両都の規格の比較研究から、平城京は唐長安城をモデルとした可能性が高いと考えられています。南レヴァントとメソポタミアの都市同士の関係性も、これまで着目されていない観点から切り込むことで、今後明らかになるかもしれません。それは、その後に都市生活が人類社会に広まっていった根本的な理由を示すことになるはずです。

 

作寶婁写真1(山藤2016.7).jpg

テル・アラド全景(周囲を巡る石造りの城壁と内部に街区が見える)

 

作寶婁写真2(山藤2016.7).jpg

テル・アラドの街区(正面奥から延びる通りに面して矩形遺構が建ち並ぶ)

(都城発掘調査部研究員 山藤 正敏)

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