2015年9月
古代において、饗宴は王権に対する服属を確認する儀礼であり、支配政策として重要な位置を占めていました。『日本書紀』斉明紀の中には、「甘樫丘の東の川原に須弥山を造って、陸奥と越の蝦夷を饗応した」という記載があります。他にも、「須弥山を象ったものを飛鳥寺の西に作り、都貨邏人を饗宴した」という記事や、「石上池の辺りに須弥山を造り、粛慎を饗応した」という記事があり、諸蕃や夷狄(異国や辺境の民)に対して饗宴をおこなったことが伝えられています。
これらの饗宴がおこなわれた施設と考えられているのが石神遺跡です。石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置します。斉明紀の記事にみられるような須弥山石が1902年に発見されたことでも有名です。この須弥山石は須弥山を象った石造物で、中空になっており噴水の機能を有していました。
石神遺跡は1981年以降、当研究所により本格的な調査がおこなわれてきました。調査の結果、斉明朝期に大規模な石組溝や石組池、石敷広場、四面廂建物と無廂の長舎4棟とが組み合う中枢施設などが存在したことが明らかになっています。また、須弥山石の出土場所も発掘の結果確認でき、石敷広場に配置されていたらしいことがわかりました。遺跡の立地、遺構の内容ともに斉明朝の饗宴施設にふさわしいものであるといえます。
出土した土器の中でとりわけ注目されるのが、4次調査で出土した内側を黒く仕上げた土器で、7世紀の飛鳥では通常みられない特殊なものです。これは「栗囲式」という東北地方の土器で、内面に炭素を吸着させることで黒色に仕上げ、口縁部に段を有することを特徴とします。これら東北地方の土器は、蝦夷が饗宴を受けた際に持ち込まれたものと言われています。このように、出土した土器には都や畿内周辺のものではない、遠隔地のものが含まれ、石神遺跡で饗宴を受けた集団の出自を強く示唆するものとみられます。
斉明朝の蝦夷政策としては、阿部比羅夫による蝦夷征伐遠征が著名ですが、服属の儀礼として、蝦夷を都で饗宴することも征伐遠征と同様に重要視されていたようです。比羅夫も蝦夷を討った後、遠征先で蝦夷を集め饗宴したとされており、服属儀礼としての饗宴の重要性が窺われます。
石神遺跡から出土する遠隔地の土器は東北地方のものだけではありません。印花文と呼ばれるスタンプ文様が施された土器は、朝鮮半島の新羅から持ち込まれた土器です。異国からの使者も石神遺跡で饗宴を受けたらしいことがわかります。
このように石神遺跡は斉明朝における饗宴の在り方を知る上で、最も重要な遺跡の一つです。饗宴は支配政策・外交政策として重要な位置を占め、その実態解明を進めることにより斉明朝の特色をより一層鮮やかに描き出すことが可能になるでしょう。
石神遺跡の方形石組池
石神遺跡から出土した東北地方の土器
(都城発掘調査部研究員 大澤 正吾)