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奈良時代における古墳

2015年8月 

 平城宮の北側には、大型の前方後円墳が多数存在しています。これらは「佐紀盾列古墳群」と呼ばれ、概ね4世紀後半から5世紀中頃にかけて築造されたと考えられています。奈良時代の人々も、これらの古墳を日常的に眺めていたと思われますが、当時の人々はこれらの古墳にどのような想いを抱いていたのでしょうか。

 『続日本紀』には古墳に関する記述が2回登場いたします。1回目は平城京が完成する直前の和銅二年(709)の記事で、平城京の造営を管轄していた役所に対して、元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」という勅令を出した、とあります。ここから、平城京を作る際には古墳が壊される事例があったことが伺えます。

 このことについては、発掘調査でも確認されています。平城宮の東寄りにある第二次大極殿とその北側の内裏地区を発掘したところ、実に墳長117m、周濠を含めると全長147mに達する大型の前方後円墳の痕跡が発見されました。この古墳は現在「神明野古墳」と呼ばれ、5世紀前半の築造と考えられています。この古墳は平城宮を作る際に完全に壊されてしまい、その跡地に内裏や第二次大極殿が築かれていたのです。また、平城宮の北側にある市庭古墳についても、往時は墳長250mに達する大型の前方後円墳でしたが、平城宮を造営する際に前方部が完全に削平されてしまい、現在は後円部を残すのみとなっています。

 このほかにも、平城宮の北方に営まれた庭園施設である松林苑では、古墳の墳丘や周濠を庭園の築山や苑池として利用するために改作した痕跡や、墳丘の一部を削平して四阿のような建物を築いていた例も見つかっています。

 このような事例を見ますと、奈良時代の人々は自らの先祖とでもいうべき古墳時代の墳墓に対して、極めて冷淡な仕打ちをしていたことが伺えます。近年でも、各種開発によって古墳が壊されてしまう事例がありますが、それは奈良時代においても認められるのです。

 しかしながら、すべての人々が、古墳を単に破壊すべき対象と考えていたわけではありませんでした。『続日本紀』におけるもう1つの記事を見ますと、宝亀十一年(780)に光仁天皇が「寺を作るときに古墳を壊し、その石材を用いていると聞くが、それは単に死者の魂を驚かせるだけではなく、子孫をも憂えさせることになるので、今後禁止せよ」と命じています。これは、古墳の保護をうたった日本最古の事例です。

 古墳を破壊する一方で古墳を保護しようとする、開発と保護の対立の歴史は、既に奈良時代から始まっていたのです。文化財の調査研究と保護に携わる人間としては、この歴史の延長線上にいることを自覚しつつ、未来の人々に勇壮な古墳の姿を伝えていけるよう、努力していきたいと考えております。

 

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 第二次大極殿及び内裏地区における神明野古墳の痕跡

 

 (都城発掘調査部主任研究員 林正憲)

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