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飛鳥寺の美豆良(みずら)飾り

2015年2月

 飛鳥寺は、崇峻元年(588年)に造営が始まった日本最初の本格的な寺院です。その建立にあたっては、仏舎利、僧、瓦博士や造寺工など様々なモノや知識・技術をもった人々が百済から渡来したことが『日本書紀』に記されています。そのことは、日韓で不断に進められてきた発掘調査によっても確かめることができます。たとえば2007年に百済の王興寺木塔心礎から舎利荘厳具が出土し、脚光を浴びましたが、飛鳥寺でも1957年に木塔心礎から舎利荘厳具が出土しています。両者には金や銀の板や、各種玉類・装身具類など多くの共通点が認められます。百済の全面的なバックアップのもと造寺が進められたとする文献の記述はどうやら確かなようです。

 飛鳥寺の舎利荘厳具の多くは、推古元年(593年)正月におこなわれた仏舎利を埋納し心柱を立てる儀式に関わるものとみられます。飛鳥寺に伝わったとされる記録には、この儀式の場面について興味深い記述があります。蘇我馬子はじめ100人以上の参加者が、みな百済風の髪型で百済服を着て参列したというのです。もちろん儀式には百済僧など百済人も参加していたでしょうが、記述が確かであれば倭人までも百済人と同じ格好をしていたことになります。その真否については専門家の間でも意見がわかれますが、最近は近年の考古学的成果に力をえて積極的に評価する立場が優勢のようです。

 ただ肝心の考古資料は少し複雑です。というのも飛鳥寺の舎利荘厳具の中には、美豆良に取りつけたとみられる飾金具が含まれているからです。美豆良とは髪の毛を左右に振り分け、耳のあたりで束ねた男子の髪型で、日本独自のものと考える説が有力です。少なくとも百済の髪型ではありません。もちろん埋納品が儀式の参加者の服装を直接的に示すわけではありませんが、百済の作法にのっとったであろう儀式において美豆良飾りが納められたのであれば、文献の伝える情景とはずいぶんイメージが変わってきます。

 ここで重要なことが一つあります。飛鳥寺の発掘当初から、舎利荘厳具の中に美豆良飾りがあるかもしれない、と認識されていたわけではないことです。それは1988年の藤ノ木古墳の発掘調査で、よく似た飾金具が被葬者に着装した状態で出土したことによって初めて推測できるようになりました。おそらく考古学というと、新たな発見やまだ地下に眠る未知の遺跡にロマンを感じる方が多いと思います。それに比べると発掘後に待っている出土資料の調査研究は、地味で息の長い作業ではありますが、このように新たな視点で見直すことで、収蔵庫に眠る資料からも新しい発見があるかと思うと、何だかワクワクしてきませんか。

 

飛鳥寺の美豆良飾り.jpg

飛鳥寺の美豆良飾り

 

美豆良飾り着装イメージ.jpg

美豆良飾り着装イメージ(復元品)(藤ノ木古墳北側被葬者)
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-」

写真提供:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
    出典:「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-」
(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 秋季特別展図録第68冊 p.79)

      (都城発掘調査部研究員 諫早 直人)

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