奈良文化財研究所に関するさまざまな情報を発信します。

瓦礫は語る

2014年9月

 瓦礫の山というと、廃材が山積している様子が思い浮かびます。奈良文化財研究所の収蔵庫はまさに瓦礫の山です。といっても、もちろんコンテナには入っていますが。収蔵庫の瓦は、瓦礫といえども飛鳥時代から奈良時代を中心とし、近代にまでいたる大切な考古資料です。つまらないものの例えとして瓦礫が使われる場合がありますが、我々にとっては宝の山です。  

 私が奈文研で瓦を研究する考古第3研究室に配属されて最初の仕事は、藤原宮出土の膨大な量の瓦を1個1個チェックし、特徴的な瓦を抽出することでした。まさに毎日が瓦礫の山との格闘の日々でした。

 しかし、瓦をみていくうちに、それぞれの瓦で胎土や焼成が異なることが分かってきました。砂粒の多いもの、少ないもの、クサリ礫とよぶ黒い砂粒が入るもの、青灰色のもの、焼きすぎて赤くなったもの。これらは藤原宮の瓦窯の個性を反映していました。

 藤原宮は日本で初めての瓦葺きの宮殿であり、寺院造営とは比較にならないほど大量の瓦を生産する必要がありました。この課題をクリアすべく考え出されたのが、各地の瓦窯に生産を分散させる方法です。各地の生産力のある既存の瓦窯に瓦生産を依頼すると同時に、藤原宮専用の瓦窯も新設されました。

 藤原宮の瓦窯は、大きく分けて奈良盆地の内と外とに分けられます。奈良盆地外は、主に藤原宮造営以前の既存の瓦窯で、奈良盆地内は宮造営時に新設された藤原宮専用の瓦窯です。
  奈良盆地外は、奈良県内では五條市牧代瓦窯、県外では香川県宗吉瓦窯、兵庫県洲本市土生寺瓦窯、滋賀県大津市石山国分遺跡、瓦窯は特定できませんが大阪の陶邑でも瓦を生産していた可能性があります。奈良盆地内の瓦窯は、高取町高台・峰寺瓦窯、平群町安養寺瓦窯、橿原市日高山瓦窯、大和郡山市内山・西田中瓦窯などがあります。

 このようにたくさんの瓦窯があるため、胎土も個性的です。慣れてくれば特徴的なものは小さな破片でも、胎土や製作技法を手がかりに一見しただけでどこの瓦窯のものか分かります。

 ところで、藤原宮では宮中央に資材運搬用の運河が南北に流れていました。運河は大極殿や内裏の真下を通るため、これらの建物が完成した時には確実に埋まっています。
 1977年の藤原第20次調査で検出した運河の最下層からは、天武天皇11~13年(682~684)の紀年銘木簡、および天武天皇14年(685)に制定された冠位、「進大肆」と書かれた木簡が出土しました。運河が機能していた時期はこの頃まで遡る可能性が高く、藤原宮造営が少なくとも天武朝末には開始されていたことが判明しました。

 この運河の最下層からは軒瓦こそありませんが、瓦の小片が出土しています。これらをひとめ見て、牧代瓦窯、高台・峰寺瓦窯、日高山瓦窯産が含まれていることがわかりました。なかでも、奈良盆地内の瓦窯の瓦があったことには驚きました。

 これまで藤原宮の瓦生産は、既存の瓦窯が先行し、藤原宮専用の瓦窯がやや遅れると考えられてきました。大和盆地外の瓦窯産の方が文様的には古いこと、瓦の製作技法が、大和盆地内の瓦窯では粘土紐技法という桶に似た型に粘土紐を巻き付けて瓦を作る新技法をもちいるのに対し、大和盆地外の瓦窯は粘土板を桶に巻き付けて作る粘土板技法という伝統的な技法を使っているためです。

 しかし、運河から大和盆地内の瓦窯の瓦が出土したことで、宮造営当初から藤原宮に比較的近い場所に瓦窯を新設し、新技法を導入して生産を開始していたことが分かりました。 つまり藤原宮の瓦生産は大量生産を見越して綿密な計画のもと、着実におこなわれていたことを示します。

 藤原宮造営という壮大なプロジェクトの真実を、瓦礫といわれそうな小さな破片が語りかけていたのです。

140909_FL_0010.jpg

藤原宮運河最下層から出土した瓦

 

      (都城発掘調査部研究員 石田由紀子)