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食堂の裏手

2014年7月

 社員食堂(しょくどう)の話ではありません。「じきどう」と読みます。

 古代寺院においては、食堂は僧たちが一同に集って食事をする重要な施設でした。2013年度に当研究所が発掘した薬師寺の食堂も、例外ではありません。発掘調査によって明らかになった食堂の遺構は、東西47.1m、南北21.6mの大きな基壇を持つものでした。

 古代寺院の伽藍配置というと、金堂や塔、講堂、そして回廊といったような施設群の配置が思い浮かびます。それは、今日私たちが寺院を見学する際に目にする、いわば表の姿であるからかもしれません。しかし、多くの僧侶たちは、これらの背後にある僧房や食堂、あるいはさらに裏側にある諸施設で、様々な活動をしていました。

 古代寺院で、こういった裏側にまで発掘調査が及ぶことは余りありません。奈良市の西大寺は、資財帳の内容とあわせて、発掘調査によって食堂を取り囲む「食堂院」の様相が具体的に判明した希少な事例です。これによれば、食堂院においては、南から食堂・殿・大炊殿が中軸を揃えて並ぶほか、東西の檜皮厨や甲双倉などの建物が存在していました。食堂での活動と関連した諸施設は、たくさん必要だったことが分かります。

 この西大寺の事例に続くものとして、2014年度に当研究所が発掘した薬師寺の調査があげられます。この調査では、食堂の背後に存在する十字廊の規模を明らかにしただけでなく、十字廊の東方に東小子房が存在し、その配置が西小子坊と対称をなしていること、東小子房の北側には東西を仕切る塀が建っていたこと、そして、十字廊の北には石敷きの通路が設けられており、それは礎石立ちの建物へと続いていること、なども明らかになりました。薬師寺における食堂の裏手の様相に、調査のメスが入れられたのです。

 『薬師寺縁起』などによると、天平末年時点での平城京薬師寺の寺地内には、五坪分からなる「塔金堂并僧坊等院」が設けられており、十字廊の北西にはまだ「院」の範囲が続いていたと考えられています。この部分には発掘調査が及んでいないため詳細は明らかでありませんが、一連の施設群が北西へと延びていくことを推測させます。あるいは、石敷き通路の先に、北側へと続く門が設けられていた可能性もあります。そこで、思い切って、想像を膨らませてみましょう。

 平安時代初期に薬師寺僧景戒が書いた『日本霊異記』には、薬師寺の東の里に住む目の見えない男が、薬師寺の東門に座って毎日礼拝をしていた話が出てきます。この男は、正午の鐘をきいては、寺に行って僧たちに食物を乞い、生き長らえたそうです。東門から東南門や南大門まで回り道をして、炊事場である食堂の裏手、すなわち伽藍の北端に行くのでは遠すぎます。おそらく東門から西へ直接向かって、食堂の裏手に辿り着いたのではないでしょうか。裏口からこっそりと入ってきた目の見えない男に、僧たちが毎日食べ物を分けてあげている、そんな心温まる情景が、目に浮かんでくるようです。

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天平末年の薬師寺の寺地と伽藍配置(それぞれの施設の位置は大まかな位置を図式的に示している)
(奈文研『薬師寺発掘調査報告』(1987)および宮上茂隆『薬師寺伽藍の研究』(草思社2009)を参考に作成)

 

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十字廊北方の礎石建物と石敷き通路(北から)

      (都城発掘調査部 研究員 庄田慎矢)