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宇治・白川地区の坊棚田

 平等院や宇治上神社のある中宇治地区から山をひとつ隔てた南側、直線距離で1kmほどしか離れていない場所に宇治市の白川地区がある。東西に伸びる谷筋にひっそりと集落がたたずみ、その谷間を埋めるように茶園と水田が展開する、まるで隠れ里のような場所である。  
 図1は明治中期の地籍図から復元した白川中心部のかつての土地利用である。これを見ると面白いことがわかる。白川地区の茶園(図中黄緑色)は地区の周囲にあり、中央の集落と白山神社(図中紫色)の間、少し南に至るまでの範囲は概ね水田(図中薄黄色)となっている。この水田一帯は、かつて、藤原頼通の娘・寛子により康和4(1102)年に創建されたと伝えられる白川金色院とその坊(十六坊)があった場所で、江戸時代に多くが衰退したものの、発掘調査によりその範囲は概ね押さえられている。この土地利用図と十六坊範囲(図中黄線)を重ねてみると、水田領域は十六坊の範囲と概ね一致する。これはなぜだろうか。  
 改めて白川地区の地形を見直すと、白川地区には寺川と白川という高さの異なる2本の川が平行に流れており、十六坊のエリアは両河川の高低差を利用して水を配ることによって形成された土地利用だったということが読める。おそらく、十六坊は坊ごとに敷地を平坦に造成し、そこに水を利用して池などをつくったのだろう。その後に形成される棚田は、この十六坊によって形成された四角い平坦面と導水の存在により、容易に水田に転用することができたと考えられる。
 白川のまとまりある水田は、名付けるならば「坊棚田」といったところだろう(図2)。  
 ではこの坊棚田と茶業との間には何らかの関係があるのだろうか。  
 宇治の茶業は、図3のようにヨシズと稲藁で遮光をしながら、柔らかくまろやかな茶葉を育てる本簀覆下栽培が基本で、その際、ヨシズの上に乗せる稲藁が必要不可欠である。稲藁は茶摘み後に畑に落とされてマルチング材にもなる。また、茶業を主な生業とする集落では、茶摘みとの関連で田植え時期が遅れるなど、米の品質をそれほど高めることができない。つまり、坊棚田は茶業に付随する水田であると捉えられ、その存在は、白川金色院の周囲に徐々に茶業集落が形成され、金色院の衰退とともに茶業集落が生育していく過程を明瞭に示している。  
 1960年代以降、農業の機械化に伴い全国で水田の区画整備事業が実施された。しかし、その波は坊棚田にはやってこなかった。それは、十六坊由来の比較的広く直線的な平坦面が、既に存在していたからに他ならない。坊の間を巡った小路跡であろう畔道を歩いていると、ごくありふれた風景のなかに、この土地が含んできた磁力を感じ取ることができるだろう。

(惠谷 浩子)
図1 明治期の土地利用
図1 明治期の土地利用


図2 白川の坊棚田


図3 本簀茶園での茶摘み

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