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宇治橋通りの庇と出格子

 宇治の文化的景観の中核をなす宇治橋通りは、平安貴族の別荘地として区画された格子状街区を斜めに横断するように、12世紀頃に新設された通りである。中世末以来、宇治の茶業を取り仕切った「茶師」と呼ばれる特権的な茶業家が屋敷を連ね、近代以降は多くの茶師が没落して茶商の時代へと移り、さらに宇治の都市的発展にともなって商業集積地となり現在に至った、特異な歴史を有している。
 この通りの現在の景観は、建築物から見ると、江戸時代以来の伝統的様式に基づく町家が点在するものの、その数は必ずしも多いとはいえず、一見、かつての町並みがとりとめもなく改変されてしまっている町に思えてしまうかもしれない。しかし、よく見ると、ここの建物のファサードには、実に不思議な細部がある。1階庇の出と出格子の形状が、それである。宇治の町家の1階庇は、軒の出が異様に深い。都市部でありながら茶製造をおこなっていた宇治の生業上の特徴を示す建築細部といえるが、軒先は道路脇の水路を越えて路面に張り出している。あたかも水路を深い軒で押し抱くかの如くである。出格子も特異である。太い柱で組まれる出格子の枠が、地上から立ち上がらず、片持ちの腕木上に載せられている。明らかに不自然である。
 これらの特徴は、建築形式の問題というよりは、道路脇の水路と建物の位置関係に起因する。一般的な町では、水路は町家から半間ほど離れて流れているが、宇治橋通りでは町家の正面に接して流れている。そのため、庇は水路を越えて路面に飛び出すことになるし、出格子は支柱の立ちどころを失い、宙をさまようことになる。では、なぜ水路が家の際に接して流れているのか。ここには、宇治橋通りの歴史が明瞭に刻まれている。
 江戸時代には、宇治橋通り沿いに多数の茶師屋敷が並んでいた。近世中期の宇治を詳細に描いた「宇治郷総絵図」(宇治市歴史資料館蔵)には、茶師屋敷のある道の両側に水路が描かれており、この水路が近世中期にはすでに存在していたことがわかる。茶師屋敷の表構えは、現在も残る上林春松家に見られるよう、塀及び2階建ての長屋を建て、門を構えるものであった。塀、長屋ともに、軒の出はごく浅く、敷地境に沿って流れる水路が、ちょうど雨落ちの位置に当たっている。つまり、この水路位置は、茶師屋敷の家屋形式に対応して形成されたものだったようだ。
 明治以降、茶師が力を失い、新興の茶商に取って代わられていく中で、広大な間口を誇った茶師屋敷は細分化され、複数の町家が建ち並ぶ現在の通りの景観が形成されていった。茶師屋敷に隣接する町家は、壁面を茶師屋敷の長屋門や塀に揃えて建設され、結果として庇の軒が大きく路面に張り出す形式となったのだろう。茶師屋敷と町家とが同じ通りに混在していたことが、こうした建物と水路の特異な関係を生んだものと考えられるわけである。
 宇治橋通りの水路は、茶師屋敷を中心とする町であった近世までの町の骨格と、近代以降における土地の細分化と茶商の勃興という異なる時代の歴史を統合する、宇治の重層性の象徴として、今に残っている。公道と私有地の境に流れる水路の位置ゆえに、宇治橋通りの建築には、庇下の特異な空間が生まれた。それらが集積することで成り立つ宇治橋通りの景観は、個々の建築が姿を変えようとも、今にいたるまで庇下空間が造り出す独自性を保ち続けている。

(清水 重敦)
宇治橋通りの庇と出格子
宇治の町家の庇と出格子

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