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消えた煉瓦の行方

2014年2月

 奈良時代前半、平城宮の中心部である大極殿の前面には、煉瓦の積まれた巨大な壁が、高さ約2m、幅約100mにもわたり築かれていました。専門用語では、この煉瓦は「磚(せん)」とよばれ、磚の積まれた壁は「磚積擁壁(せんづみようへき)」とよばれます。この磚積擁壁は、大極殿を一段高い位置にみせ、それを荘厳するための装置の一種と考えられていますが、そのために使用された磚の数は、約12,000個という膨大な量に及びます。

 この、擁壁の高さや、使用された磚の数は、1970~1999年に磚積擁壁付近で行われた発掘調査の成果により算定されましたが、その調査時にもうひとつ重要なこともわかっています。擁壁の高さが約2mですので、厚さ8.12㎝の磚が25段程度積み上げられていた計算になりますが、実際に見つかったのは、最も残りのよいところでも下の7段だけだったのです。ざっとした計算では、もともと使用された約12,000個のうち、約2,400個の磚しか現地には残されていなかったことになります。それでは、残りの約9,600個の磚はどこに消えたのでしょうか。

 その答えの一つは、天平12年に、聖武天皇が都を恭仁京に移し、大極殿やそれを囲む東西築地回廊が撤去された後に新たに設けられた遺構の中から見つかりました。東西築地回廊が撤去された後、同じ場所に新たに掘立柱塀が作られますが、その柱を据える際に掘られた多くの穴の底から、磚積擁壁と同じ形・大きさ・作り方の磚がみつかったのです。据えた柱が沈下しないようにするための工夫であり、その為に磚がリサイクルされたのでしょう。しかし新たに新設された塀のために掘られた柱穴は合計130個、すべての穴に平均10個ずつ磚が使われたとしても、その総数は1,300個。消えた9,600個に遠く及ばず、新たに行方をさがす必要があります。

 これについてかつては、奈良時代後半に平城宮の東側の東方官衙地区とよばれる場所に置かれた、通称「磚積官衙(せんづみかんが)」とよばれる建物でリサイクルされたという説もありました。この磚積官衙は、磚積擁壁を除くと、例外的に磚を建築部材として多用した施設であり、一見、使用された磚は、大極殿磚積擁壁のものと似ています。しかし、近年の研究成果により、形・大きさ・作り方が微妙に異なり、磚積官衙のために新調されたことがわかりました。平城宮内のどこかに、大量の磚が埋もれている可能性もありますが、まだその発見の兆しはありません。

 このような中で、意外なところで手かがりが見つかりました。さきほど天平12年(740)の恭仁京への遷都の話をしましたが、その中心部である恭仁宮跡から出土する磚が、大極殿磚積擁壁の磚と、形・大きさ・作り方がほぼ一致することがわかったのです。考えてみれば、恭仁宮大極殿は、平城宮第大極殿が移築されたものと考えられており、その前面を荘厳した擁壁に使用された磚が、恭仁宮でリサイクルされたとしても不思議ではありません。

 むろん、恭仁宮で見つかる大極殿磚積用とよく似た磚の総数の確認など、様々な研究を行わなければ、平城宮大極殿磚積擁壁に使われた磚の主たるリサイクル先が、恭仁宮であったと断言することはできません。しかし、磚積擁壁に使用された膨大な数の磚の行方を捜す旅も、あと一歩のところに来ていることは確かです。     

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磚積擁壁

 

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柱穴の礎板として再利用された磚

  

      (都城発掘調査部 主任研究員 渡辺丈彦)

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