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ラニガトへ、ラニガトから

2012年3月
 

ラニガト遺跡の発掘風景(1984年)
ラニガト遺跡は、パキスタン・ガンダーラ地域の東を限る山並みの一角に営まれた、この地で最大級の仏教寺院の址である。京都大学の調査隊によるこの遺跡の発掘調査の報告書の本文篇が、調査から四半世紀を経て昨年末にようやく刊行された。この報告書は、現在、奈文研が調査と修復に関与しているアフガニスタンのバーミヤーンの仏教遺跡を検討するにあたっても、今後、重要な資料となるはずである。ここでは、報告書には書かれていない当時の調査のありさまと、私が関係した出土土器の研究成果を紹介しよう。 

 京都大学によるガンダーラ地域を含む中央アジアの仏教遺跡の調査は、第二次世界大戦後は継続が難しくなった中国での調査から転じた水野清一先生によって始められ、樋口隆康先生がこれを引き継ぎ、さらに西川幸治先生を隊長とするラニガト遺跡の調査へと続く。ラニガト遺跡の発掘は、1983年の予備調査の成果を踏まえて1984から始まり、1986・1989年と三次にわたって広大な遺跡の中核部の調査が実施され、その後、遺構実測が1992年まで続けられた。私が参加したのは1983・1984・1989年の調査で、延べ八か月間ほどをこの地で過ごしている。  
 指導教授であった小野山節先生からこの調査隊への参加を勧められた時、私は大学院生ですでに弥生時代の青銅器の研究を主要な研究テーマにしていたが、参加するからには具体的な成果を何か残したいと考え、まだだれも試みていなかったガンダーラの仏教時代とその前後の時代の体系的な土器編年の作成を自分の課題とした。
  1984年にラニガト遺跡の中核部の発掘調査が始まって間もなく、主塔院前の南北通路部に厚い土層が撹乱を受けずに残っていることが判明した。以後、私がこの地区を担当し、良好な層位資料を入手するために注意深く分層して土器を取り上げることを心掛け、調査を進めた。発掘には近在の村の住民を人夫として多い時で二百人以上も使ったが、そのほとんどは力仕事は得意でも発掘に必要な繊細で慎重な作業には不向きだったので、私は十人ほどを選んで子飼いの人夫として訓練し、調査精度を保つように注意した。
  しかし、問題は出土品の整理で、半数以上が自分の名前を書くことすらできず、書けても使っている文字や数字の字体が私たちのものと違う現地の人には、土器のマーキングすら任せることができず、接合も含め、それらの作業はすべて私自身でしなければならなかった。報告書に掲載した700個ほどの土器の実測図もほぼ私一人で作成したが、電力供給の安定していないこの地域では停電が多く、夜、裸電球一つの暗い部屋での土器の実測に集中しすぎ、目が腫れ上がって見えなくなってしまったことも何回かあった。 
 衛生状態も劣悪で、入浴代わりの行水は各自バケツ2杯の湯で済ませ、寝ている間に南京虫に血を吸われネズミに噛まれることも珍しくなく、同僚の一人は腸チフスにかかり急遽日本へ帰ることになってしまった。また、石切り場で大理石を鉄のハンマーで砕く日当二百円余りの仕事以外に賃仕事がほとんどない地元の住民にとっては発掘調査の人夫は魅力的な仕事で、その奪い合いが頻発した。ある日、遺跡のある山の麓の村の住民たちと他の村の住民たちの間で仕事の奪い合いから激しい喧嘩が発掘現場で始まり、襲われた側の一人が発砲したものの弾が出ず、敵対する村の住民に捕えられて殴られ、頭蓋骨陥没の重傷を負うという事件もあった。
  このように、1984年の発掘は、日本では考えられない過酷な状況下で行われた。それでも調査は何とか進み多量の土器が出土し、帰国後の関係遺跡出土資料との比較検討の成果も加えて土器編年案を作成し、1986年刊行の概報で発表した。この土器編年案は、その後の調査において遺構や土層の時期を判断するための重要な指針となった。さらに1986・1989年の発掘調査で新たに入手した資料により1984年の調査に基づく編年案の妥当性を確認するとともにその細分が可能となり、計画していた土器編年を作成できたのである。 
 この地域のこの時期の土器研究の基礎となってきたのは、イギリスの著名な考古学者ウィーラーがチャールサダの都市遺跡、バーラー・ヒサールを発掘して得た層位資料とそれに比定した実年代で、1962年の報告書刊行以来、現在に至るまでこれが無批判に使われ続けている。しかし、前記の土器編年の作成過程で、ウィーラーが数世紀新しい土層をクシャーン朝頃のものとしており、これがこの地域の仏教時代の遺跡の研究を混乱させる大きな原因となってきたことが判明した。今後、前記の土器編年を基礎とすることで、仏教寺院の伽藍配置やガンダーラ美術の変遷についての研究が大きく進展するであろう。また、この地域のそれまでの研究で欠如していた精緻な型式学的な分析・研究方法を具体的な形で紹介できたことも重要である。これが刺激となって、この地域の遺物研究が深まることを期待したい。

 ラニガト遺跡の報告書本文篇の刊行後、この地域の現状が気になり、インターネットで調べてみた。しかし、出てきたのは、遺跡に関する情報ではなく、自爆テロなどの生々しい映像や記事ばかりであった。残念ながら、現在、この地域に外国人はほとんど入れない。ラニガト遺跡のある山の麓、ノウグラム村の、私と一緒に発掘をしてくれた当時まだ十代後半であった人夫たち、精悍で鷹のような眼をしているが心根の優しいスニン、村長の息子でひょうきんもののバクシエール、現場で私の髪を切ってくれたバクティアール、彼らは、今、どうしているのであろうか。過酷な環境の下、貧しいが勇敢で誇り高いパターンの人々の姿が目に浮かぶ。早朝、十一月の冷たい空気の中、二十代の私がピックアップトラックの荷台に人夫らとともに乗り込み、畑の中の道なき道を土ぼこりにまみれながら揺られてノウグラム村に着く。ラクダとロバに荷を積み、険しい山道を今日も登る。山頂のラニガト遺跡から見るガンダーラの平原はその時と変わらず、今も、土と緑を織りなして広がっているのであろう。古い友人たちを訪ね、彼らのふるまってくれる甘いチャイを啜りながら調査の思い出を語り合う日は、いつ来るのであろうか。

(企画調整部長 難波 洋三)
※肩書きは執筆当時のものです。

 

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