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三笠の山に出でし月かも

2009年8月

 あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 百人一首に収められたこの歌は、皆さんもよくご存じのことと思います。作者の阿倍仲麻呂は、都が藤原京にあった文武天皇2年(698)に阿倍船守の子として生まれました。名族阿倍氏の出身で、若くして学才を認められた仲麻呂が遣唐留学生して唐に渡ったのは、養老元年(717)のこと。よく知られているように、唐で官吏として活躍し、結局日本に戻ることなく、宝亀元年(770・唐暦大暦5)に唐でその生涯を終えています。年代的にはまさに奈良時代の人なのですが、その経歴のためか、この歌は『万葉集』ではなく、平安時代に編纂された『古今集』に収められています。そして、これが仲麻呂作として知られる唯一の和歌なのです。

 『古今集』の詞書によれば、この歌が詠まれたのは、仲麻呂が帰国の途につこうとした際、明州(現在の寧波)で開かれた餞別の宴でのことでした。仲麻呂は、天平勝宝5年(753・唐暦天宝12年)、玄宗皇帝の許しを得て、前年に入唐した遣唐大使の藤原清河らとともに日本に帰国しようとしていたのです。広々とした大空をはるかに仰ぎ見れば、今まさに帰ろうとしている故郷平城・春日の三笠山でかつて見た月と同じ月が昇ってきている―在唐36年に及んでいた仲麻呂の帰郷への期待があふれ出た歌なのです。しかし、仲麻呂の乗った遣唐使船は難破し、当時は唐の領内であった安南(現在のベトナム)に漂着。都の長安(現在の西安)に戻った仲麻呂は帰国を断念し、再び唐で官吏としての道を歩みます。その後、唐暦上元2年(761)から数年間、現在のベトナムのハノイに置かれた安南都護府の長官・鎮安南都護をつとめるなど、日本人としては他に類例のない栄進を果たすのです。

 三笠山は、江戸時代以降は山焼きで知られる若草山のことを指したこともありました。しかし、仲麻呂が詠んだ三笠山は、春日大社の裏手にそびえ、笠を伏せたような形の御蓋山(みかさやま)のことです。春日山連山の一峰、というよりもその中心をなすこの山は、平城宮跡のあたりからだと、春日山連山で最高標高を持つ背後の花山などと重なって、その輪郭が確認しづらいのですが、奈良公園の近辺からだとその端正な山容をよく把握することができます。では、この歌を詠んだとき、仲麻呂がイメージした三笠山はどのようなものだったのでしょうか。実は、仲麻呂の加わった養老元年の遣唐使の一行が航海の無事を祈る祭祀をおこなったのが、他ならぬこの三笠山(御蓋山)の南麓でした。おそらく、想いを馳せたのは、間近に仰ぎみたその時の山の姿だったのでしょう。

 余談になりますが、私どもの研究所では、近年、ベトナム・ハノイ所在のタンロン(昇龍)皇城遺跡の調査や修復計画に協力しています。見つかっている建物跡などは11世紀頃のものが中心ですが、遺跡自体は7世紀頃から19世紀まで重なっています。部分的に見つかっている古い時期の建物跡などからすると、仲麻呂が長官をつとめた唐の安南都護府もこの場所にあったものと考えられています。

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重なる山塊のうち手前の笠を伏せたように見えるのが御蓋山(三笠山)
<奈良公園の荒地から>

(文化遺産部長 小野 健吉)
※肩書きは執筆当時のものです。

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