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藤原宮のその後

2007年12月
 
 奈良の都「平城京」へ都が遷って1300年にあたる、2010年が間近にせまってきていますが、日本の都として、中国に倣い、我が国で最初に計画的に作られた人工都市は、「藤原京」です。 
 しかし、わずか16年で都は平城京へ遷ってしまいました。平城遷都1300年は、同時に藤原京が廃されて1300年目ということになります。 
 それではその後、都の跡地はどういう歴史をたどって現在の景観にいたったのでしょうか?

 都の中心だった藤原宮の発掘調査が進む中で、少しずつですが、その様相が明らかになってきています。 
 奈良時代から中世にかけての遺構が検出されていますが、ここでは平安時代の興味深い遺構を紹介しましょう。 
 近年、連続して調査を行った朝堂院地区では、東第三堂や東第六堂で、朝堂の建物があった基壇上に、掘立柱建物がたくさん見つかっています。 
 基壇の残骸である高まりが、屋敷地として利用されていたのです。たとえば、東第六堂の基壇上には、屋敷地を画する東西方向と南北方向の掘立柱塀があり、その中に掘立柱建物を何度も建て替えていることがわかりました。注目されるのは屋敷地の外側の状況です。 
 朝堂の屋根を葺いていて、遷都で廃棄された大量の瓦を、両側に寄せて作った溝を巡らせています。さらに、瓦を盛り上げた帯状の高まりを、通路として使っていたことが推定出来ます。 

 東第六堂や東第三堂の基壇を利用した屋敷地の年代は、9世紀から10世紀頃と考えられます。内裏東官衙地区でも、同様の時期のまとまった建物群が見つかっています。他に宮西南隅や宮東面北門地区でも、平安時代の建物・塀・井戸が検出されています。  
 1983年に宮西北隅の井戸から、弘仁元年(810)10月から翌年2月までの某庄園の出納簿である、長大な木簡が出土しました。これにより宮域一帯が早い時期に荘園化したことがわかりました。その木簡には「宮所庄」という文献にない荘園名がみられます。 
 藤原宮の大極殿の東側には「宮所」の小字名が残っていて「宮所庄」との関係が考えられます。また文献では、宮域やその周辺に「高殿庄」「飛騨庄」などの荘園があったことが知られています。宮内でみつかってきている平安時代の遺構が、これら荘園の管理施設などと、はたして関連するのかについては、今後充分な調査研究をしていくことが必要でしょう。 
 宮と同様、京域の発掘調査でも廃都後の遺構が検出されています。特に、中世の溝で囲まれた集落は注目されます。現在の集落形成へいたる変遷を考えるうえで重要な資料です。遷都後にその跡地がたどった歴史を明らかにしていくことも、都城研究の重要なテーマです。
(埋蔵文化財センター長 安田 龍太郎)
※肩書きは執筆当時のものです。

 

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