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西トップ遺跡の概要

遺跡の概要


西トップ寺院の全体像:南東から


中央祠堂:北東(上方)から


中央祠堂の南側入口のリンテル:南から


仏陀の脇にひざまづく供養者の彫像

  西トップ寺院(Western Prasat Top, Monument 486)は、高さ8メートルほどの中央祠堂の南北に小塔を配し、東側に「仏教テラス」と呼ばれる低い基壇がのびた、比較的小規模な寺院遺跡です。寺院はアンコール・トムの中に位置し、バイヨンの南西数百メートルのところに位置しています。

 西トップ寺院の創建は、一般的には9~10世紀頃と考えられています。20世紀前半に北小塔から発見された碑文が、ヤショヴァルマン1世(在位889~910年頃)の母方のおじ、サマッラヴィクラマによるヴィシュヌ像と建物の建立を記しています。また中央祠堂の南側に残るリンテル(まぐさ石)にはスレイ様式(10世紀)の紅色砂岩が用いられており、さらに中央祠堂の砂岩製外装石材の内側には化粧彫刻の施されたラテライト石材を一部見ることができます。そのため、当初はラテライト石材を主体とした中央祠堂だけの小規模な建物が単立していたのが、その後、一部の石材を転用しながら砂岩製の一回り大きな建物に改築されたと考えられます。この現在の中央祠堂の建物は平面十字形の構成をしており、ポスト・バイヨン様式(13世紀半ば以降)に位置づけられます。その後、南北の小塔が付け加えられ、さらにその後には東に仏教テラスが増築され、さらに寺域を囲うラテライト石列と8組のシーマ石(結界石)が配置され、14~15世紀にはこの現在の姿になったと考えられます。

 アンコールの寺院建築はしばしば増改築を繰り返し、またその役割を変化させるのが一般的です。西トップ寺院も当初はヒンドゥー教の寺院として建立され、仏教テラスの増築とシーマ石の配置によって上座部仏教の寺院に転換されたと考えられます。仏教テラスの上には木造のヴィハーラ(僧院)の建物が建てられていたと考えられ、その屋根に葺かれていたと考えられる瓦が大量に出土しています。そしてそれまであった中央祠堂の石造建築はストゥーパ(仏塔)に見立てられたのでしょう。ヴィハーラとストゥーパの組み合わせは、上座部仏教に特徴的な形式です。また西トップ寺院の彫像には、あぐらを組み(結跏趺座)、右手で地面を触れる(触地印)仏陀と、その脇にひざまづく供養者があらわされたものがみられますが、これも上座部仏教に特徴的な表現です。こうした上座部仏教への転換は、アンコール朝が衰退し、隣国タイの影響が強まった政治的状況を反映していると考えられます。アンコール遺跡群の石造寺院のなかでも上座部仏教の要素が強くみとめられるのは少なく、西トップ寺院以外にはプリア・ピトゥなどに限られています。

 アンコール遺跡群の最盛期は、アンコール・ワットやアンコール・トムが造営された12世紀頃ですが、西トップ寺院はアンコール最盛期の前後にわたって長期間存続した数少ない遺跡です。そうした意味で、この遺跡はまさにアンコール興亡を見つめてきた「生き証人」といえるでしょう。まだまだわからないことの多いアンコール興亡のプロセスを解明する上で、この遺跡は重要な「鍵」となることは間違いないでしょう。

アクセス方法

 西トップ寺院へのアクセスの方法ですが、アンコール・トムの中央に位置するバイヨンから西にのびた直線道路を 600メートルほど行くと、車両通行止めの看板があり、その左に南にいく小道があります。そこを200メートルほど行くと右側に寺院がひらけています。小道の入り口には車止めがあり、途中の道も雨季にはぬかるんでいることが多いので、車を止め、徒歩で行かれたほうがいいかもしれません。

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