宮跡案内 GUIDE

第一次大極殿FORMER IMPERIAL AUDIENCE HALL

建物内公開時間 9:00~16:30(入場は16:00まで)
建物内非公開日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月26日~1月3日)

第一次大極殿院と大極殿

第一次大極殿院復元模型の平城宮へのモンタージュ

平城京の正門である羅城門と平城宮の正門である朱雀門を結ぶ朱雀大路の延長上、宮の中央には、南から北へ向けて緩やかに傾斜する空間が広がっています。この場所を、第一次大極殿院と呼んでいます。

大極殿院は、天皇の即位や元日朝賀などの国家儀式、あるいは外国使節の歓迎の儀式がおこなわれた施設です。
平城宮には大極殿院と想定される地区が、この他にも東隣にもう一か所あります。

このうち第一次大極殿院地区は、710年の平城京への遷都当初から740年に恭仁京へ遷都されるまでの間、大極殿院が置かれていたところでした。南北320m、東西180mの範囲を築地回廊で囲み、南半分を広場とし、北半分では磚(せん、粘土を焼き固めた灰黒色の煉瓦)積みの擁壁を設けて高い壇を形成し、天皇の座がおかれる建物である大極殿を配していました。

大極殿正殿復元事業

平城宮跡では、1978年に策定した「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、宮跡全体を「遺跡博物館」とみなした整備・活用事業が、文化庁によりすすめられています。その一環として第一次大極殿院地区では、中心建物である大極殿(大極殿正殿と呼称)の復原工事が、遷都1300年となる2010年の完成を目指して2001年より開始されました。奈文研は、現在、文化庁が進めるこの復原事業に対し、専門的立場から復原のための基礎研究に重点を置いて協力しています。

なお、文化庁により、復原工事の過程を広く公開するとともに、関連資料を展示する施設として、第一次大極殿正殿復原工事一般公開施設が、復原工事現場に隣接して設置されています。

大極殿の復元研究

第一次大極殿平面図

奈文研は、大極殿の復原原案の作成段階までを主体となって進めてきました。原案作成のための復原研究は、第一次大極殿院地区の発掘調査の成果をまとめた『平城宮発掘調査報告XI』(1982年)の検討過程において始まりました。その後、第一次大極殿院の復原事業を念頭においた検討を進め、1993年には大極殿院全体の1/100模型、95年には大極殿の1/10模型を作成し、98年に大極殿院の復原原案を得るに至りました。

大極殿の復原原案作成にあたっては、現存する同時代の建物からその様式を引用し、組み合わせるという手法にとどまらず、古代建築の構造から細部の形状の意味に至るまで、総合的な検討をおこない、古代建築のしくみを新たな視点から理解し直すことを試みました。古代建築を新たに作り上げるという立場から、現存する古代建築、今日までの建築史研究の成果、明治以来百年を越える蓄積をもつ文化財建造物修理から得られた知見、発掘調査によって明らかになった資料のそれぞれに再検討を加えていきました。

復元大極殿の構造形式

第一次大極殿立面図

第一次大極殿断面図

大極殿の構造型式は、発掘調査によって得られた基壇及び階段の痕跡と発見遺物、そしてこの大極殿が移築されたものとみられる恭仁宮大極殿の遺構を直接的な根拠とし、さらに平安京大極殿に関する諸資料や現存する飛鳥・奈良時代の建物を参照して推定されました。

基壇は凝灰石で化粧された二重の壇上積(だんじょうづみ)基壇、建物の平面は桁行7間(各柱間17尺)、桁行2間(各柱間18尺)の身舎(もや)の四周に出15尺の庇(ひさし)を廻す形式です。

建物は二重で、上重の屋根は入母屋造本瓦葺です。初重の柱は身舎と庇の高さを同高に揃える、中国の
『営造法式』(1100年に北宋で編纂された建築技術書)にいう「殿堂」形式としています。柱間装置は、正面を全て解放、側面と背面を壁とし、階段位置に扉を設けています。組物、軒は薬師寺東塔を、内部架構や小屋組は法隆寺金堂を参照しています。

免震装置の採用

第一次大極殿基壇の免震装置

朱雀門同様に、大極殿の構造は、復原原案のままでは今日における建築構造上の安全性を満たしておりません。
そのため、実際の建設にあたっては、構造上の安全性を満たすための手だてが必要となります。大極殿の実施設計では、地震による揺れを最小限に軽減させるための手だてが必要となります。大極殿の実施設計では、地震による揺れを最小限に軽減させるための免震装置が導入されました。基壇内部を空洞として、リニアスライダー、積層ゴム、粘性体ダンパーの組み合わせからなる免震装置を挿入し、復原建物を地盤から切り離すことにより、建物本体への構造補強を最小限に抑え、復原原案に近い形態での施工が実現されています。

朱雀門SUZAKU GATE

開門時間 9:00~16:30(入場は16:00まで)
閉門日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月26日~1月3日)

平城宮の朱雀門

復原した朱雀門。朱雀大路に向かって開く平城宮の正門。 元日や外国使節の送迎の際に儀式が行われたほか、都の男女があつまって、恋の歌をかけあうのを天皇がみるというイベントもここでおこなわれました。

平城京の入り口である羅生門をくぐると、約75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そしてその4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていたのです。 朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人が集まって歌垣なども行われました。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいました。
朱雀門は衛士たちによって守られ、常時開いていたわけではありませんが、宮の正門としての権威とともにその勇姿を内外に誇示していたと思われます。

朱雀門の復元研究

朱雀門の復原研究は、昭和39年度に同跡地を発掘調査し、翌年に十分の一の模型を制作したところから始まりました。その後同54年度から材料と工法に関する研究を7年間にわたり続けた後、同61年度から3年継続で「平城宮朱雀門の意匠と構造に関する研究」をおこないました。 朱雀門に関する直接資料は、発掘調査によって明らかになった、基壇を示す基礎と地業、平面規模を知る柱位置、出土した屋根の瓦です。これらの事実に基づき、現存する古代建築や文献資料を参考に、今日までの建築歴史研究の成果や、明治以来百年の蓄積をもつ文化財建造物修復で得た知見などをもとに、想定を加えながらの復原研究が行われました。

復元朱雀門の構造形式

朱雀門の構造形式に関する直接的資料はありません。今回の復原では平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し、その基本構造を、古代に於いて唯一の遺構である法隆寺中門に倣いました。朱雀門は奈良時代前期の建築であり、その年代が法隆寺よりくだることから、様式は同年代の薬師寺東塔を参考にしました。そして、朱雀門の規模が大きいために、各部材の大きさや比例関係などは、より近い条件を持つ東大寺転害門も参考にしました。西部は、たとえば軒の納まりは海龍王寺五重小塔、風鐸は四天王寺講堂出土品、尾垂木のこぐち金物は薬師寺出土品、鴟尾は唐招提寺金堂・橿原市太平寺出土品、難波宮出土品などを参考にしています。

復元設計と構造補強

奈良時代の建物はその時代特有な構造的脆弱さをもっており、現代的な構造上の安全も確認されているわけではありません。そこで、この建物を実際の建築として成り立たせるために、まず純粋に奈良時代建築を考え、それに加えて必要に応じた補強対策をとることにしました。 今回の復原では、奈良時代から今日まで建物が存在し続けたと仮定し、そこに加えられたであろう中世・近世に新しく開発された工法を出来るだけ見え隠れに取り入れることで伝統的な木構造を保つことにしました。
しかし、当然ながら法規上は現代の建築建物として扱われ、構造力学的な安全性の裏付けが必要となり、小屋組内に筋違を入れ、初重の壁は内側を木枠と金属で固めました。

東院庭園EAST PALACE GARDEN

開園時間 9:00~16:30(入場は16:00まで)
休園日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月26日~1月3日)
なお駐車場は年末年始も開放しております(8:30~17:00)。

発掘調査

1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見されました。この場所は『続日本紀』にみえる
「東院」にあたることから、発見された庭園は「東院庭園」となづけられました。それまで奈良時代の庭園については古い文献からそのようすをうかがうのみでしたが、この発見を契機に発掘調査を継続した結果、庭園部分とその周辺一帯の様相がほぼあきらかになりました。東院庭園は東西80m×南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認されたのです。

「東院」とは?

平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれたようですが、孝謙・称徳天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。

称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。最近の研究では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心として営まれていたとする説があります。いずれも発掘された「東院庭園」と深く関わる施設でしょう。

後期東院庭園の特色

東院庭園は東西60m、南北60mの南から見て逆L字形の池を中心に構成されています。池の西岸には中央建物に付属する露台が水面に張り出し、露台から東岸には橋をかけています。池の北端には築山石組、西南部には中島があって、それぞれ庭園景観の焦点となり、屈曲する出島の先端部には景石が配されています。池底から岸辺にかけてゆるやかな勾配で小石を敷きつめた洲浜が出入りのある汀線をかたちづくっており、奈良時代の優美な庭園の様子がしのばれます。自然の風景を主題とした平安時代以降における庭園の原形ともいえる重要な遺跡なのです。

東院庭園の池

東院庭園の池は前期と後期の2時期に分けることが出来ます。前期の池は汀沿いの池底に大きな玉石を帯状に敷きつめていましたが、後期の池では池底から岸にかけて前面に小礫を敷き詰めた浅い池となっていました。池の形も前期の単純な逆L字形から、後期にはいくつもの入り江や出島をもつものに作り直されており、池の北岸には築山石組が新たにつくられました。奈良時代中頃の池のつくり替えにともない、建物も何度か建て替えられました。

庭園内の建物跡

東院庭園では池の北東方や中央に主要な建物を配しています。左に見える建物が中央建物、右奥に建つ建物が北東建物です。このほか、庭の南東隅でも特殊な建物跡がみつかっています。ごく最近の発掘調査で、逆L字形の特殊な平面配置をもち、頑丈な地盤固めをしていたことがあきらかになりました。正八角形(経約32cm)の柱も4本出土しています。しかし、建物の上部構造や意匠、庭園内で果たした役割などについては不明なところが多く、庭園空間全体との関係をふまえ、今後詳しく検討していく必要があります。

復元整備の基本方針

平城宮跡全体の整備は『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想』(1978年、文化庁)に基づいて行われています。平城宮跡に設定されている4ヶ所の立体復原地区の一つが東院庭園であり、平城宮内で営まれた宴遊空間を再現することをめざしています。復原に際しての基本的な方針は以下の通りです。

  • 1奈良時代後半の庭園の姿及び建物を復原整備する。
  • 2遺構は保護のために土で覆い、その上に池、建物、橋、塀などを原寸大で復原するが、石組や景石の一部は、実物を露出展示する。
  • 3出土した植物遺体などの発掘成果や文献資料をもとに、植裁樹種を選定し、古代庭園にふさわしい景観を復原する。

庭園地形の復元整備

中央建物と平橋 中央建物は池の西岸中央にある東院庭園の「正殿」で、宴会や儀式の際に中心となった場所と推定しています。池に張り出す露台がつき、ここから東岸と平橋で繋いでいます。平橋は桁行4間×梁間1間の堀立柱建の東西橋です。柱は中央建物縁束の出土柱根を異本として、八角形断面(経約24cm)と復原しました。また平橋、反橋ともに、擬宝珠は1966年に平城宮東南隅で出土した瓦製擬宝珠にならっています。

庭園地形の整備では地下に残っている遺構をきずつけないように、土盛による保護を原則としておこなっています。遺構の真上に復原建物や築地塀を建設する場合、40cmほど盛土して整備地盤面としました。一方池の部分では、地形そのものが遺跡であることから、景石や洲浜石敷の遺構そのものを見ていただきたいのですが、洲浜の遺構は大変壊れやすく露出に耐えないため、砂と不織布で覆って保護した上に遺構と類似した小石(経5~10cm程度)を厚さ10cm程度に敷き詰め、奈良時代の洲浜を再現しました。盛土の厚さによって生じる地盤高の差については、庭園の各所でなめらかに繋いで処理しています。露出している景石の表面は合成樹脂で強化し、割れていたものは接着して修復しました。景石が失われたと考えられる位置には、裏に補充年度を墨書きした石を新たに据えて、奈良時代のものと区別するようにしました。

池の水

反橋 桁行5間×梁間1間の堀立柱建、南北橋です。平橋とほぼ同じ桁行総長ですが、平橋が4分割したのに対して5分割とし、柱間隔をせまくしています。さらに柱間隔は、中央3間の方が両端2間より広いことから、橋の曲折にあわせて柱を立てたと考え、反橋として復原しました。

池を持つ庭園に於いては水の扱いが重要となります。奈良時代後期の東院庭園では庭園北方の西から東へ流れる石組水路とこれを受ける石組護岸の小池が給水施設の中心で、このほか池北東部のわき水部分には曲げ物を据えて水源を確保していました。また、池を乾すために水を抜く際は、南面大垣の下をくぐらせた暗渠を使いました。整備では石組み水路と小池を復原して池の給水を行うとともに、水の淀みをなくすために池の西部を中心に池底の9ヶ所に給水管を増設してあります。池の水量は約350立方メートル、給水には井戸水を使い、「宇奈多理の杜」の北西方に設けた管理施設で最高1日3回の割合で循環浄化し、正常な水質を保つ工夫をしています。

植栽の復元

東院南門 桁行5間×梁間2間の礎石建、東西棟建物です。東院の正門で、中軸線の北延長上には東院玉殿があると推測しています。構造と部材寸法などは法隆寺東大門にならい、単層切妻造の五間三戸門にしました。

 植裁は庭園の景観を形づくる重要な要素です。発掘調査によって池の堆積土から採取した植物遺体(枝葉、種子、花粉など)を分析した結果、奈良時代後半の東院庭園には主にアカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの樹木が植えられていたと推定しています。この成果を中心に、『万葉集』や『懐風藻』などにみられる庭園植裁の記録も参考にして樹種を選びました。植裁の位置は、樹木の植え穴、もしくは抜き取り穴の可能性がある浅い窪みや、大きな枝がまとまって出土した位置などを参考にして復原しました。また樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』などの絵画資料を参照し、全体の景観に配慮して決めました。

建物復元の考え方

発掘調査で見つかった建物跡の上屋構造はどのようにして推定復原されるのでしょうか。疑問に思う方も多いかもしれません。 まず建物跡によって平面が確定し、雨落溝があれば軒の出も分かります。軒の出がわかれば、軒先の組物もおよそ想像できます。このほか井戸の枠板や溝の堰板に転用された建築部材、柱穴にのこる柱根、10分の1縮尺の建築模型部材などの出土資料が、復原に当たっての第一の情報源となります。くわえて、奈良県内には飛鳥・奈良時代の古建築が30棟ほど現存しているので、それらの構造・意匠・部材寸法などを参照したり、文献史料や平安時代の絵図をも視野に入れながら、建物の復原を進めてゆきます。

中央建物の復元

大面取を施した八角柱の出土状況(第99次)

桁行5間×梁間2間の身舎(建物の中心部分)の四周に縁をまわした東西棟建物です。大部分の柱は礎石建ですが、四隅の柱のみ深い柱穴をともなう堀立柱としています。西側3間の部分だけ、地下に特別な地盤固めをしているので、そこを閉鎖的な「室」、東側2間を池と連続する開放的な「堂」と考えました。また、この間取りは、法隆寺伝法堂前身建物とよく似ていることから、原則として部材寸法や構造形式は、これにしたがって復原しました。さらに、南東の柱であったことから、平等院鳳凰堂など、面取り部材を用いた古代の現存建物を参照して、部材のほとんどに面取を施しました。

北東建物の復元

北東建物(南西から)

庭園の北東にある桁行3間×梁間2間の礎石建の東西棟建物です。円柱を受ける平らな彫り出し(円柱座)をもつ礎石が出土しており、これから柱の直径が41.4cmと推定できました。池の北に建つ「亭」のような施設と考え、開放的な空間構成の法隆寺食堂を復原の見本とし、東西の妻面のみが壁で南北は吹き放しとして復原しました。

西建物の復元と活用

円柱座付き礎石(第110次)

桁行7間×梁間2間の身舎に西庇のつく堀立柱の南北棟建物です。東院南門と玉殿をつなぐ道路の脇に設けられた「控の間」のような建物で、本来は庭園とは関係ない施設です。しかし復原事業では、西側の駐車場から庭園内に導入するためのエントランスおよび管理施設として位置づけ、整備しました。これらの現代的機能もみたすよう、構造体を古代建築として復原しつつ、内部では鉄骨やガラスなどの新建材を多用し、復原部分と現代的昨日空間が一見して区別できるように工夫しました。このように現代的機能を兼ね備えた復原建物の建設は、平城宮跡では初めての試みです。

遺構展示館EXCAVATION SITE EXHIBITION HALL

開館時間 9:00~16:30(入場は16:00まで)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月26日~1月3日)
なお駐車場は年末年始も開放しています(8:30~17:00)。
入館料 無料

遺構展示館

発掘調査で検出された遺構そのものを、覆屋(おおいや)と呼ばれる保護施設の中で保存・展示しています。第一次大極殿、朱雀門、東院庭園と同様に、文化庁が設置・所有する施設です。奈文研は、その保存管理・研究に協力しており、保存環境のモニタリングの場として、保存科学の研究に貴重なデータを収集しています。

おもな展示エリアは北棟・中棟・南棟の3つの建物で構成されています。

北棟のおもな展示

○ 内裏の復元模型(1/10、奈良時代中期) 内裏は天皇のすまい。南門の北に正殿があり、儀式等の行われた正殿の前庭に立つようにして模型をみることができます。

○ 内裏出土のスギの大木をくりぬいた井戸枠の実物展示

○ 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(昭和39年〈1964〉に発掘調査)の遺構の露出展示 730年(天平の初め)~770年(宝亀の初め)の間に同じ場所に複数の建物が建て替えられた痕跡を示しています。柱穴の重なり方を観察することで、それらの掘られた順番がわかります。実際の遺構と、モニター画面の表示を見くらべながらご覧ください。

中棟のおもな展示

○ 塼積官衙(せんづみかんが)と呼ばれる役所の発掘遺構の模型、塼積官衙の建物の一部の復原模型

○ 発掘調査で出土した遺物の展示瓦・土器・木簡・塼(せん)(古代のレンガ)などのほか、井戸枠や近隣の造酒司(ぞうしゅし)(官立の酒造所)から出土した
木樋(もくひ)(木製の排水管)を展示しています。

南棟のおもな展示

○ 建物内で塼積基壇建物跡の基壇北辺部とその北側の東西方向に長い雨落溝(あまおちみぞ)などの露出展示。

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