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縞の間からみえる世界

2016年2月 

 言葉にはその国の文化をあらわす特徴が含まれています。その文化にとって重要だったものの名残が言葉として残っています。たとえば、牛はヨーロッパの言語圏では、雄牛、雌牛、子牛とそれぞれ区別してよんでいます。また、アラビア語圏でも、雄ラクダ、雌ラクダ、若いラクダ、大人のラクダ、出産していないラクダなどなど、性別、年齢、状態によってそれぞれよび方が異なります。それは日本語にもみられることです。たとえば、雨に関する言葉。通り雨、にわか雨、小雨、長雨、霧雨、大雨、時雨、五月雨、菜種梅雨などさまざまに形容しています。そして、着物の柄として知られる「縞」の呼称にも、じつに多種多様の名称が存在しています。子持縞、矢鱈縞、鰹縞、滝縞、よろけ縞、三筋、唐桟、間道など二~三百もの縞の名前がみられます。日本人は、縞文様それぞれに個性をもたせて細かく分類しており、それらは非常に身近なものであったことを物語っています。

 縞文様は古くから織られていた文様のひとつです。縦縞と横縞だけでなく、格子も縞として総称されます。縞の衣装は、鎌倉時代に入り武士を中心とする社会の到来とともに、資料のなかにも目立つようになります。異文化の運び手だった僧侶は中国から経典のほかにも異国的な品々を持ち帰りましたが、名物裂(めいぶつぎれ)もそのひとつでした。鎌倉時代の織物師である弥三右衛門や千利休に見出された間道(かんどう)と呼ばれる名物裂は、茶の湯や上流社会, 好事家の世界に持ち込まれ特別な存在となります。間道の故郷は遠いペルシャ、トルコ、インド、インドネシア、その他の東南アジアおよび中国南部といわれています。これらが海上交通の要所であった広東経由で南蛮船により日本に運ばれました。

 さらに、南蛮船は当時の日本では栽培できなかった綿の縞織物を日本にもたらしました。唐桟もその一つで、インドや東南アジアの島々からもたらされたので、「島」、「嶋」あるいは「奥島」ともよばれました。南蛮船でポルトガル人やオランダ人が運んでくる極細の綿糸で織られた縞織物は、まるで絹のような風合いと光沢があり、なかでも赤の細縞を配した異国を思わせるデザインと色彩をもつ「サントメ」に当時の権力者たちは夢中になりました。サントメ(São Tomé)とはポルトガル語で、縞織物を輸出していた港があったインドの地名といわれています。現代でいうと、パリからやってきた舶来の高級スカーフといった感じでしょうか。このサントメに遠い異国からという意味の「唐」がつけられて、唐桟留(とうさんとめ)、唐桟(とうざん)とよばれるようになります。

 唐桟が為政者や好事家たちを虜にした理由のひとつには、鮮やかな赤色の存在がありました。当時、色鮮やかに発色させる技術はヨーロッパにもなく、古くからインドだけがもっていた染色技術でした。染料の多くは、自然のなかの植物や虫などの生物を原料としますが、医薬品としても貴重なものでした。インドでは、臙脂(えんじ)虫から採れる色素や茜根を用いて唐桟などの赤色を染めていました。さらに、15世紀にはアメリカ大陸の発見により、南米のサボテンにつくカイガラ虫から採れるコチニールという赤色色素がヨーロッパに運ばれるようになります。糸や布を染める場合、染料を美しく発色させ色が褪せるのを防ぐために、媒染(ばいせん)という化学処理をします。この媒染は植物の灰や土などから得られる金属塩の作用を利用し、色素を繊維に定着させます。インドでは古くから明礬(みょうばん)を用いる媒染技術が使われており、これで臙脂などの鮮やかで堅牢な色を得ました。

 明礬の鉱山開発を手がけ、媒染剤として使用される明礬を独占的に取引することで莫大な利益をあげたのが、フィレンツェの商人であったメディチ家です。メディチ家の祖先は薬問屋もしくは医師だったといわれていますが、鉱山で得た資金で金融業に乗り出します。そこから得た富で、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの多数の芸術家を支援し、ルネサンスを後押ししました。「赤」は、明暗の「明か」を語源とします。この色は、輝かしい次の時代の夜明けをあらわしていたのかも知れません。

 

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さまざまな唐桟裂

(埋蔵文化財センターアソシエイトフェロー 杉岡 奈穂子)

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