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シンメトリーなはずなのに

2015年11月 

 人間をはじめ鳥、魚、虫など動物の身体の形は、(ひらめ)(かれい)などの例外はありますが、基本的には背骨などを軸にして左右対称です。そうなった理由はわかりませんが、やはり構造的に安定するのでしょう。デザインの世界ではこれを「シンメトリー」と呼び、紀元前から現代に至るまで、世界各地で政治や宗教などの象徴的な建物のデザインに多用されています。ギリシャのパルテノン神殿、中国の故宮(紫禁城)がいい例ですね。

 平城宮第一次大極殿院もシンメトリーな形に計画されていたことがわかっています。大極殿院は平城宮における政治や国家的な儀式の場でした。その位置は、奈良時代前半は宮の正門である朱雀門の真北にあり、東西約176.6m(500大尺の計画、大尺は通常の尺の1.2倍の長さで、第一次大極殿院では1大尺は約35.3cm)、南北約317.7m(900大尺の計画)の南北に長い区画を築地回廊(築地とよぶ土塀の内外を回廊とした遮蔽施設)で囲んでいます。この区画は、大極殿の中心と大極殿院の南門(南面築地回廊の中央に開く門)の中心を結ぶ南北の線を軸にして、東西対称に計画されていたと考えられます。つまり発掘調査で発見した築地回廊の痕跡から区画の形を描くと、南北に長い長方形になるはずです。しかし、実際の発掘調査でみつかった区画は西北部分だけが西側に飛び出すいびつな形でした。数字でいえば、区画の西辺が北半では南半より1.1mほど西側にずれていたのです。なぜずれているのか...。奈良時代の工事は大らかで、これくらいは施工誤差の範囲だったのでしょうか?はたまた当時の、あるいは発掘調査時の測量ミスでしょうか?その答えは地中深くにありました。

 発掘調査成果から、第一次大極殿院西北部の平城宮造営前の地形は西面築地回廊の西側あたりから西へ急激に低くなっており、平城宮造営にあたってそこに最大約2mの盛土を施していることがわかりました。さらにその下は、西へ傾斜する固い地盤(大阪層群)の上に腐植土による軟弱な地層が最大約8m堆積していることが、ボーリングなどによる地盤調査からわかりました。つまり軟弱な地層が大量の盛土や回廊(基壇・築地・建物部材・瓦)の荷重を受けて徐々に沈下し、固い地盤の傾斜に沿って地すべりのようにズルッと西へ動いたようなのです。

 じつは、この西北部分の地盤が悪いということはすでに奈良時代の工事関係者も認識していたようです。恭仁遷都(740年)にともない、第一次大極殿院の回廊は大極殿とともに恭仁宮へ移築されたことが『続日本紀』にみえ、恭仁宮跡(京都府木津川市)での発掘調査によっても裏付けられています。また、第一次大極殿院の発掘調査成果によると、移築されたのは東面と西面の築地回廊の部材だったようで、移築の後、東面・西面の築地回廊の跡には掘立柱塀が建てられます。この掘立柱塀を建てる際、地面に穴を掘って柱を立てますが、西面では沈下防止のために柱の下に磚(レンガ)を敷いていたのです。地盤が良い東面では磚は敷いていません。奈良時代にも工夫を凝らした仕事がされていたわけです。

 ご存じのとおり、大極殿は既に復原され、これから大極殿を囲む築地回廊や門、楼閣の復原整備工事が本格化します。築地回廊の工事では、当時の施工技術に近い方法で土を突き固めて築地を復原する予定です。しかし、土の塊となる築地は大変重くなるので、この方法は地盤が良い東面と南面の東部だけで採用され、地盤が軟弱な西北部を含む西面と南面の西部では築地を軽量化する方法をとることになりそうです。

 第一次大極殿院の復原が完了するのはもうしばらく先ですが、大極殿とそれを囲む諸施設がシンメトリーに配される空間はきっと圧巻でしょう。完成した暁には、是非そこに身を置いて雰囲気を体感していただきたいと思います。

平城宮第一次大極殿院復原整備案1/200模型.jpg

平城宮第一次大極殿院復原整備案1/200模型(国営飛鳥歴史公園事務所提供)

(都城発掘調査部アソシエイトフェロー 村山 聡子)

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