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古社寺修理技術者たちの近代和風建築

2015年3月

 春日野にたたずむこの建物、先々代の奈文研本庁舎です。奈文研が設立された昭和27年(1952)から、一昨年まで本庁舎としていた旧県立医科大学附属奈良病院の建物に移転した昭和55年まで庁舎としていました。昭和58年には重要文化財に指定され、現在も奈良国立博物館の仏教美術資料研究センターとして使われています。明治35年(1902)、奈良県物産陳列所として建てられました。木造、2階建、桟瓦葺の建物は、平等院鳳凰堂の左右対称の建築構成、法隆寺をはじめとする飛鳥時代の建築の細部意匠など、日本を代表する歴史的建造物の構成・意匠が随所にちりばめられています。

 設計を手掛けたのは関野貞。今日の文化財の調査・研究・保護の基礎を築いた人物として、御存じの方も多いでしょう。平城宮跡を近代の学問の俎上にのせたことなど、今日の奈文研の調査・研究の源流ともいえます。東京帝国大学造家学科で建築学を学んだ関野は、明治28年卒業論文として「鳳凰堂建築説」を著し、明治30年、古社寺保存法の制定にともない、初代・奈良県技師として、飛鳥時代の法起寺三重塔など、奈良県下の古社寺修理を監督しました。この建物にあらわれた構成・意匠は、まさに関野が歩んだ道、つまりは近代日本における文化財の調査・研究・保護の歴史が表現されたものといえるでしょう。

 奈文研では、ここ20年ほどの間、関西を中心に各地の近代和風建築を調査してきました。その中でも修理技術者が設計を手掛けた数多くの建物に出会いました。京都の武徳殿(松室重光、明治32年)、兵庫の旧明石郡公会堂(加護谷祐太郎、明治44年)、奈良県の長谷寺本坊(天沼俊一・阪谷良之進・岸熊吉、大正8~12年)、滋賀の向源寺観音堂(土屋純一、大正7年)など、いずれも古社寺の構成や意匠が建物に散りばめられた名建築です。

 文化財を守り伝えた技術者が手掛けた建築が時を経て、それぞれの地域で守られ今日に至り、近代和風建築として評価されることとなったのです。特に文化財に携わる私たちにとって、見習うことの多い建築群です。平城宮跡第一次大極殿院をはじめとする復原研究に携わるなか、自ら生み出すことの歴史的な意味を考えさせられます。

先々代の奈文研庁舎.jpg

先々代の奈文研庁舎

(都城発掘調査部研究員 鈴木 智大)

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