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6畳から古代をさぐる

2015年3月

 6畳、約10㎡。部屋の広さの話でしょうか?  いえいえ、発掘調査の調査面積の話です。奈良文化財研究所では1,000㎡以上の広い調査区をもつ発掘調査もおこないますが、このように狭い面積の発掘調査もおこないます。小面積の発掘調査からどのようなことがわかるのでしょうか? 法華寺を例に見てみましょう。

 法華寺は平城宮跡の東に位置する寺院で、北東に海龍王寺が隣接します。平城京遷都(710年)の際、この地には藤原不比等の邸宅がありました。それを不比等の死後、娘の光明子が伝領し、平城京還都(745年)の際に「宮寺」となりました。現在の境内は慶長年間に建てられた本堂を中心とした範囲ですが、往時は総国分尼寺として南北3町、東西2町の寺域を誇っていたといわれています。

 法華寺旧境内での発掘調査は1960年代からはじまり、現在までに約110件の発掘調査がおこなわれています。このうち調査面積20㎡以下の調査が約半数、調査面積は10㎡以下の調査はさらにその半分、全体の約4分の1にあたります。最小の調査面積は3㎡。2畳より狭い面積です。

 法華寺と海龍王寺の旧寺域は平城京の条坊において、北は一条条間路、東は南一条大路に接しています。東二坊大路は一条南大路との交差点で西にカギ状に折れ曲がっていたと考えられ、現在の県道104号線の法華寺交差点でのカギ折れはこれを踏襲しているとみられます。いっぽう、法華寺旧境内の北限は1970年頃にはまだその位置は定かではありませんでしたが、一条条間路は東二坊大路で折れ曲がらずにまっすぐ伸びると考えられていたようです。しかし、発掘調査が進むにつれ、その認識は少しずつ変化していきました。

 1974年の発掘調査(平城第82-8次)で、古代の東西溝が検出されました。当時の一条条間路の想定位置からはだいぶ南に離れており、当時は遺構の性格は不明でした。1975年の調査(平城第95-2次)では、2条の東西溝SD1140・1150が検出されました。このどちらかが海龍王寺旧寺域北限にあたるのではと推定されましたが、いずれが寺域北辺にあたるかは決め難いと結論は保留されました。1985年には2件の発掘調査(平城第164-14・164-24次)でSD1140と一連になる東西溝が検出されました。このときに平城第82-2次で検出された東西溝もSD1140と一連になると考えられるようになり、これらが一条条間路北側溝にあたる可能性が指摘されました。以後、現在に至るまで9件の発掘調査でSD1140・1150と一連となる東西溝が検出されており、それぞれ一条条間路の北側溝と南側溝にあたり、一条条間路は東二坊大路との交差点で南にカギ折れになる、と考えられるようになりました。

 狭い調査区では、その調査だけでは遺構の性格が十分にわからないこともままあります。しかし、調査成果を積み重ねていくことで、遺構の性格を少しずつあきらかにしていくこともできるのです。

 

 

法華寺旧境内復元図350_381.jpg

 

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法華寺旧境内の発掘調査 平城第417次調査(2006年)の様子。調査面積は9㎡。

 

(都城発掘調査部研究員 番 光)

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