日本のはずれ 人や物往来
鉄砲伝来の地として有名な種子島。この島には古来、海の向こうから様々な文物がいち早く到来しました。一方それは、島が地理的に日本のはずれに位置することも意味します。奈良県に暮らす私たちにとって、訪れる機会はあまり多くないかもしれません。
でも、奈良時代、平城京と種子島の間には、人や物の行き来がありました。その証拠が、平城宮跡で出土した写真の木簡。 「」と書いて「たね」と読み、種子島を指しています。
当時、種子島はお隣の屋久島とともに「」とされ、嶋司(役人)が派遣されていました。木簡は、その嶋司たちの勤務評定に関する文書につけられた札です。
ただし、この木簡が種子島で作られた可能性は低く、九州地方を統括する役所・大宰府(福岡県太宰府市)、もしくは平城京で作られた可能性が高い、と考えられています。
一方、大宰府跡の発掘では、さらに南の奄美大島に関わる木簡も見つかっています。島から送られた荷物につけられた荷札の断片とみられ、こちらは正真正銘〈南島生まれの木簡〉です。
南の島から来た木簡―。平城京の地下でも、奈良の寒さに震えながら、発見される日を待っているかもしれません。
種子島を指す「」と記された木簡
(奈良文化財研究所研究員 山本祥隆)
(読売新聞2014年11月16日掲載)