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『日本霊異記』を歩く

2013年12月

 ここ数年、月に1回の割合で、1日20㎞前後大和盆地を歩いています。アラフォー世代にさしかかり健康が気になりはじめた訳ではなく、薬師寺僧景戒(きょうかい)が、平安時代初めに編んだ日本最古の仏教説話集、『日本霊異記(にほんりょういき)』の注釈書を作る仕事にかかわり、説話の故地を訪れ、現地に即して理解することが目的です。仕事と健康を兼ねて大和の各地を歩くなかで、古代史料を読み解くヒントとなる、いくつもの小さな発見に恵まれました。ここでは、その一つを紹介します。

 『日本霊異記』には、雷を捕まえた話があります(上巻第1縁(えん))。明日香村にある雷丘(いかづちのおか)の地名起源説話なのですが、この話によると、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)は、桜井の磐余宮(いわれのみや)から、いわゆる山田道を軽(現在の橿原市大軽町(おおがるちょう)付近)まで行って引き返し、豊浦寺(とゆらでら)と「飯岡(いいおか)」との間で落ちている雷を捕らえました。とすれば、この説話の舞台は、山田道(やまだみち)沿いに限定されるはずなのですが、「飯岡」は、いくつかの説はあるものの、江戸時代以来比定地不明とされ、多くの注釈書にもそれが引き継がれていました。

 先日、栖軽の足跡を追い、遺跡や小字地名などを確認しながら、山田道を歩いてみました。そのなかで、明治20年代の地籍図にはみえないものの、それ以前までは残っていたらしい地名の一つに、「飯岡」をみつけることができました。その推定地は、県道15号桜井明日香吉野線の北側で、飛鳥資料館のすぐ近くと考えられます。今後さらに検証を続け、確実な資料や口伝を探したいと思います。

 ともあれ、100年前までは伝わっていたらしい地名を手がかりとして、少子部栖軽が雷を捕らえたという説話は、山田道沿いの地名とともに、現地に即してより具体的に理解できるようになりました。大和は歴史の宝庫です。地名や道標、道ばたに佇む石仏を愛でながら、地図を片手に古道を歩いてみれば、また新たな、土地に刻まれた歴史の生き証人に巡り会えるような気がします。

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飯岡推定地の現況(2013年11月撮影)

(都城発掘調査部主任研究員 山本 崇)

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