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恵美押勝の金・銀・銅貨

2012年1月

 昭和12年(1937)の暮れのこと。西大寺小字畑山にある低丘陵の掘削工事中に、金銭が出土し、工事現場は騒然となりました。あわてて工事を中断し、掘り起こした土をフルイにかけたところ、金銭が31枚と大型銀銭の破片、金の延板、金塊、銀鋺などが見つかり、新聞の紙面を飾る一大ニュースとなりました。

 金銭は『続日本紀』に記された「開基勝寳(かいきしょうほう)」。淳仁天皇の天平宝字4年(760)に銀銭「大平元寳(たいへいげんぽう)」、銅銭「萬年通寳(まんねんつうほう)」とともに発行されました。これら金・銀・銅銭の貨幣価値は、旧銭の和同開珎に対して、それぞれ千倍、百倍、十倍と定められており、出土した31枚の金銭は、実に和同開珎31,000文の価値があります。

 金銭の出土地は平城京の北西隅近く、平城京右京一条北辺四坊七坪にあたります。なぜここに金銀財宝が埋められていたのか。発見直後から、鋳銭所跡や離宮跡とする説、墳墓説、地鎮具説、隠匿説などが入り乱れましたが、真相は今も謎に包まれたままです。その後、金銭の出土地一帯は「西大寺宝ケ丘」と改名され、現在に至っています。

 開基勝寳をはじめとする三種の新銭を発行したのは、時の権力者藤原仲麻呂。彼は叔母である光明皇后の庇護のもと、東大寺の大仏造立を推進し、皇后の一人娘である孝謙天皇を補佐してめざましい昇進を遂げました。天平宝字2年(758)には恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、天皇に並ぶ鋳銭の特権を与えられました。押勝は大師(太政大臣)の極官にのぼった年に、金銭を孝謙太上天皇に、銀銭を淳仁天皇に、銅銭を光明皇太后に擬して、前例のない金・銀・銅という三種の銭貨を発行したのです。新銭の銭文は押勝の唐風趣味を反映しており、三銭の銭文をつなげると、唐の「開元通寳」の文字が浮かび上がります。

 このように押勝絶頂期の金・銀・銅貨の発行でしたが、和同開珎の十倍の価値をもつ萬年通寳を一方的に市場に投入したことにより、物価が高騰するなど貨幣経済は大混乱し、4年後の押勝政権崩壊の原因となりました。

 これまでに萬年通寳は全国から約820枚出土しており、開基勝寳も江戸時代に西大寺西塔跡から1枚出土していますが、銀銭大平元寳の出土は1枚もありません。発掘調査で幻の大平元寳や開基勝寳が出土する日が待たれるところです。

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(所長 松村 恵司)

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