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青年の志―平城宮跡を守った男達

2010年11月

 私は最近『平城京ロマン』と題する本を上梓しました。昨年奈文研を辞し東京農業大学の教官となった若き研究者・粟野隆氏との共著で、京阪名情報教育出版株式会社という奈良の小さな本屋さんからの出版です。私はこの本の中で平城京の成り立ちと、平城京廃都後のさまざまな動きについての項の執筆をうけもったのですが、とくに江戸時代後期に平城京の平面プランを復元した北浦 定政 さだまさ と、明治・大正の頃に平城宮跡の保存顕彰に献身した 棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)についての、かねてからの思いのたけを、短文ではありますが、綴ってみました。いささか急ぎの執筆でしたから、十分にまとめきれていなかった面もあったと反省していますが、刊行後に思い至ったことがいくつかあります。以下はその一つです。

 北浦定政は奈良古市の人で、国学の系譜に連なる 市井(しせい)の研究家でした。若年(じゃくねん)のころから学問にいそしみ、19世紀の半ば頃にいくつかの重要な成果を築きます。一つは天皇陵の比定研究で、もう一つが班田制と平城京プランの研究でした。いずれも、定政を駆り立てた動因は、幕政(ばくせい)が行き詰まり不安定な国内情勢の中、迫り来る欧米列強による日本征略の危機に、国学思想の末端を担うものとして、国難を回避するために、いにしえの天皇を中核とする国のかたちを追究するという使命感であったと思います。定政が平城京の正確な復元図である「平城宮大内裏跡坪割之図」を完成したのは嘉永5年(1852)のことでした。この年、定政は36才。

 棚田嘉十郎は、もともとは植木商をなりわいとしていました。こんにち奈良公園や奈良国立博物館の周辺に樹影をみせている大木の多くは、明治時代の後半に嘉十郎が植えつけたものです。その嘉十郎、いくつかの由縁があって平城宮跡の保存に乗り出すのですが、決定的なきっかけとなったのは、明治29年(1896)12月、知り合いであった佐紀村の人、山下鹿蔵(しかぞう)に連れられて、平城宮大極殿跡の土壇にはじめて身を置いた時のことでした。目に一丁字(いっていじ)もなかった嘉十郎の口述筆記録には「農家が、牛を繋ぐので、その芝地に牛の糞、所々に山の如くに積み重なり、実に見る影もなき有様、之れを皇居の址といわれ様ようか」とあります。また山下鹿蔵の息女であった山下マスエさんの覚え書きによると、その時、嘉十郎は落涙をとどめることができなかった様子であったといいます。この時、嘉十郎36才。奇しくも北浦定政が平城京図を完成した年令と同じです。以後、嘉十郎は多くの志ある人々の協力を得つつ、平城宮跡の顕彰という苦難に満ちた道に邁進します。皇室尊崇の念篤(あつ)く、あまりにも実直であった嘉十郎は、大正時代のなかばに至り、保存事業が着々を進捗するさなかにありながら、ある深刻な問題に巻き込まれ、自身の潔白をあかすために自ら死を選ぶことになります。

 嘉十郎の平城宮跡保存の原動力となったのは、尊皇の深い思いでした。幕末から明治維新後、欧米列強によるアジア覇権の脅威が一層強まります。それに対抗するために、わが国は天皇を至上とする国家体制構築をめざします。嘉十郎の皇室尊崇の思いの深さは、そうした社会思潮の流れの中でこそ理解されなければならないでしょう。

 ともあれ、平城宮跡の保存・研究の重要な局面で重要な働きをみせる男達がいずれも30代の青年であったことは、興味深いことです。ちなみに、平城宮・平城京の学術的研究の礎を築いた関野貞がその研究の成果を初めて公にしたのは1900年の年頭でしたが、その時、彼は33才、まさに少壮の研究者でした。

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(副所長 井上 和人)
※肩書きは執筆当時のものです。

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