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平城宮跡の認識と大極殿の復原

2006年7月

 平城宮跡資料館を入ると、入口ロビーに明治時代の平城宮跡の地形模型が展示してある。ほぼ全域が水田なのであるが、田の中にいくつかの土壇が高まりとして残っている。

 平城宮跡研究の先駆者である幕末の藤堂藩士、北浦定政は地名と畦畔から平城宮を含めた京域の復原図を作成したが、明治の奈良県技師、関野貞は北浦の研究をふまえて平城宮跡を訪ね、残存する土壇が平城宮の大極殿をはじめとする建物の痕跡だと認識したことから、ここが平城宮の地だと確信したという。

 関野はその後まとめた研究成果を明治33年1月1日付けの奈良新聞に発表し、土壇の重要性と保存を訴えている。

 関野の講演に啓発された奈良の植木職人、棚田嘉十郎らが平城宮跡の保存運動を始めるのであるが、ここでその顛末を紹介しようというのではない。当時の人々が平城宮跡を遺跡としてどのように理解し、保存、顕彰につとめたかである。

 今で言えば遺跡の整備なのであるが、当時の人々は平城宮跡を整備して公園化するなどという軽い気持ちではない。奈良時代の宮跡を顕彰するという意識である。

 さて、関野はもとより、当時の人々は土壇部分にかろうじて平城宮の遺構が残っているのであり、土壇が失われた平坦な部分、つまり水田下に平城宮の遺構が埋もれて残っていようとはだれも気づいていない。

 保存する範囲を決める際も、顕彰する工事を行うにあたっても、地下遺構への配慮が全く見られないのは平城宮跡に対するこうした認識から来ている。

 大正11年(1922)に平城宮跡は史跡に指定されるのであるが、その範囲は土壇がかろうじて残っていた第一次、第二次朝堂院地区であり、当時考えられていた平城宮全体ではない。また、このうち最も土壇の残りがよい第二次大極殿、朝堂院地区の外周を明示する目的で石組の堀を作るのだが、これなどは同地区の築地塀や門などの遺構を壊してしまっている。

 反対に、各土壇については土地を買収するとともに一基ずつ実測し、土壇裾に「地形現状標石」と刻した石柱を埋設し、その形が失われるのを防いだ。このように、整備の基本はあくまでも地上に高まりとして現存している土壇が中心であり、この保存と顕彰に意を注いでいる。

 遺跡をどのように保存、整備し、活用するのかは、その時々の人々の遺跡に対する認識の反映である。今、われわれは朱雀門を復原し、大極殿を復原しつつあるが、これもわれわれの平城宮跡に対する価値観であり、認識そのものなのである。

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大正時代のおもかげを伝える第二次朝堂院地区(北から)
手前右側が石積の堀、奥の土壇が西第一堂

(文化遺産部長 高瀬 要一)
※肩書きは執筆当時のものです。

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