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奈良の都の夏と氷

2005年6月

 奈良の夏は暑い。雪国育ちの私には、照りつける灼熱の太陽は過酷だ。こんな暑い奈良で平城京の人びとは、猛暑をどう凌いでいたのだろう。

 当時の気温は、今と比べてどうだったのだろうか。周辺に生えていた草木の種類や桜の開花時期、中国の文献などによる推定では、古墳時代から奈良時代初めまでは、現在より3度ほど気温は低くかったそうだ。しかし、奈良時代も半ばには、現在よりも高くなり、猛暑に見舞われた。

 ヒノキの細い短冊形薄板を重ねて一端を留め、放射状に開いて使う扇が出土しているので、盛んに扇いでいたのだろう。そして、井戸でウリなどを冷やしていたと考えられる。究極は、氷の存在だ。

 左大臣であった長屋王の邸宅から発見された木簡(右写真、氷の上に置いた氷関係の木簡)には、都祁(つげ)で深い穴を掘って、冬に作った氷に草を掛けて保存していたこと、夏から秋に氷室から多量な氷を馬で運ばせていたことなどが記載されていた。日本書紀には都祁の氷室(ひむろ)の起源説話があり、夏に氷を酒にひたして飲んでいたという。夏に長屋王が氷を入れた酒を楽しんでいた、といわれる所以である。

 氷は酒に用いただけではない。夏に死んだ高貴な方には氷が支給されて遺体の腐敗を防ぐなど、さまざまに使われていたのだろう。平城京内の市でも売られていたので、高級品ではあったが、子供達がしゃぶれることもあったのだろう。

 現在の都祁村の葛神社や天理市の氷室神社付近には、氷室の穴が窪んで残っている。全国的にも、氷室らしい大きなすり鉢状の穴が発見されている。私が小学校に入学する頃まで、一軒おいて隣の雪屋という屋号で呼ばれた家は、裏山の雪室に冬積もって固まった雪を夏に切り出して商っていた。奈良時代だけでなく、その前後も氷室・雪室は、日本人の生活にとけ込みつい最近まで使われていた。

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(協力調整官 岡村 道雄)
※肩書きは執筆当時のものです。

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